7/21/2013

夜のヴィオラ

先週は久しぶりにろぐをサボってしまいました。すいません。

休日と平日のコントラストというかコントラディクションがどうにもおさまらず、また一段その差を深く大きくしている。以前は平日を目前にした日曜日の夜に書くことが多かったのだけど、最近はどうもそういう気分になれずという状況にある。

平日の状況に少し慣れて落ち着きを取り戻したところでおもむろにBloggerを起動することが多くなった様に思う。それでも先々週は3連休はそれなりに楽しくもあったわけだが、続く平日のことを考えるにどうしても心のバランスを落ち着かせられず、やることをやらないことが多くなってしまっている。あきらかに悪い傾向には違いない。


この2週間にあったことをかいつまんでまとめておく。


夏が始まって子どもがだいぶん水に慣れてくれるようになった。プールで自分から頭を沈めて潜ってみたり、ケノビ(いわゆる伏し浮き)も5秒ほどは自分で浮いていられる様になった。おかげでスイミング教室のテストを無事に通過できた。

3連休の最終日は横浜市南区の清水ヶ丘公園プールに、そして昨日も根岸にある横浜プールセンターに3人で出かけ、子どもは楽しそうに水と戯れていた。中学2年生になるまで泳げなかった僕とは大違いである。まだまだとても気を抜けない状況ではあるけど、8月に予定している南伊豆でも海を楽しんでくれればいい。


30年ぶりに高校時代の同窓生で関東地方に在住している人間10名ほどが集まる機会があった。このろぐにもちょくちょく登場する翻訳会社の幼馴染みを介して僕にもお声をかけてもらった次第である。

僕にとっては小中高大とある学生生活のなかで一番悔やまれるのが高校生活かもしれないという自覚がある。それは勉強を自分で進んで一番に一生懸命やった時代であり、そのおかげでその後の大学と今日の自分があるのは間違いない。だけどその一方で、その時代にしなければならなかったある種の経験をせずにどこか偏った高校生活を送り、結果的にそれがいまの自分の影の部分に大きな影響をもたらしている様な気がしてならない。

今回集まった10人はじつのところ高校時代にはほとんど付き合いのなかった人たちなので、顔を拝見してやあ懐かしいという思いが起こる以前の問題であって、酒を呑んで話をするうちに少し共通の話題が見えてくるというのがほとんどだった。

もちろん楽しくはあったが、一番最初に場を失礼させていただいたのも僕だった。一番遅くまで残った人は朝まで呑んだのだという。そういう呑み方はもはや自分のライフスタイルからはなくなったように思えるが、早々に失礼させていただいてもそれなりの酔いの中で、やはり高校時代の何らかの空白に虚しさを覚えて、そのことがいま自分が頭を悩ましている問題の大きな原因であるかのような感覚にとらわれたことは紛れもない事実である。


仕事関係で参加している交流会のイベントで、東京駅のすぐ近くにあるブリジストン美術館を見学させてもらうことができた。ほんの短い時間であったがマチスやレンブラントやミレーやシャガールやピカソといった所蔵品の数々を、学芸員の方の解説付きで鑑賞することができ、これが平日に関係する時間のなかではほぼ唯一僕の心に一抹の鮮やかな光と風を送り込んでくれた。


妻が誕生日を迎えたというのに、どうもちょっとしたことで心が沈みがちで、何か気の利いたお祝いでもと思う気持ちになかなか弾みがつかず、結局桜木町のありふれたすし居酒屋の安上がりな宴で済ませてしまい、なんとも申し訳ないような気持ちで新しい歳に就いてもらった。


子どもが健やかさや逞しさを感じさせる一方で、幼さやひ弱さもまだまだの状況である。ともすれば周囲の環境や世間一般に寄った立場からの判断から本当は伸ばさなければいけない才能や素質から目を反らしているのではないかということに怯えながらも、そう考える根源にある自分自身の生立ちへの思いとその結果ある自身の混乱と停滞を憂う日々が続くなか、そういう自分の内部にいったいどれだけの負のエネルギーが蓄積されているのかは、海水を冠って動きを停止した原子炉のごとく当の自分にさえまったくもって様子がわからない状況にある。

これが50歳を目前にしたありふれた人間には特有の状況なのか、極めて尋常ではない事態なのか、それを確かめる術にはまだ巡り会えそうにない。以前にも紹介したヴァインベルグのヴィオラ作品が少しだけ気持ちを癒してくれる。



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