1/28/2013

チャーリー・パーカーのベスト50

久しぶりにチャーリー=パーカーを聴いている。

何枚か持っていたCDはいまはもう手元にはない。手放す時には少し悩んだ。もう聴かないかなあ、どうだろう。やっぱりパーカーはバッハみたいなもんだしなあ。

でも聴きたくなればいつでも手に入れられるだろう。このディスクだって、ほとんど大学生の頃に買ったものだ。いつまで保つかわからない。ならばいっそ...。もう3年ほど前のことだ。

夜、独り部屋で酒を飲みながら、心にどこか収まりの悪い塊を抱えたまま、何かに悶々とする。そんななかでパーカーを聴きたいという想いは急に呼び覚まされた。

それにしても便利な時代になったものだ。聴きたければネットのダウンロードがある。試聴ボタンをクリックすると、すぐにあの逞しくてご機嫌なアルトが流れてくる。2、3つまんで聴いてみて、ああもうダメだ買っちまおうとなる。

パーカーの音楽は正規のもの(正規という価値は一体何なのだろうか?)だけでなく、いろいろな組み合わせの廉価版がある。たくさんありすぎてわけがわからないくらいだ。僕が選んだのは"Best of 50 Tracks Charlie Parker"というもの。

これはたまたま目にとまったものなのだが、ホントにスゴい内容。1945年から1954年までの代表的名演を50曲収録して、値段はたった600円。え?ウソだろと思ったが間違いではない。

内容は彼の演奏家としての活動を広くカバーすることと、とにかくご機嫌な演奏を優先するという前提で選ばれていると思う。

なので一部マニアが酔狂する「ラヴァーマン・セッション」は見事に外されているし、逆に彼らには嫌われる「ウィズ・ストリングス」からはしっかり数曲選ばれている。非常に素晴らしい企画だ。

しかもどれも音がいい。少なくとも僕が持っていたCD(ダイヤルやサヴォイの正規盤として1980年代半ばに初めてCD化されたものだった)に比べても、ノイズはとってあるし音の輪郭がくっきりしている。

もちろんアレがないコレがないの類いの意見はいろいろあるのだろうが、そんな議論には興味はない。いま僕が聴きたいのはパーカーの演奏だ。それにはもう十分すぎる内容。

そして、初めてパーカーを聴く人にも是非お薦めしたい。音楽以外のパーカーの資料はネットも含めて山ほどあるけど、やっぱり先ず音楽に触れないことには始まらない。

さあさあ、みんな聴こうよ、チャーリー・パーカーを!



1/21/2013

小瓶のジン

雪が残った一週間。奈良と京都への出張なんかもあって、4日間が慌ただしく過ぎた。

しかし、今日月曜日までに作らないといけない仕事になかなか手が付かず、金曜日の午後になってようやくちょっぴり始めるも、どうも気持ちがついて来ない。

半ば確信犯的ではあったが、週末家に持ち帰るぞということにしたものの、重たい荷物を引きずったままいつものように過ごしてしまい、時間は日曜日の夜に。

観念して、というかほとんど鬱病のようになって、ビールを一杯引っかけたあと土曜日に買ったジンの小瓶をストレートで少しずつ飲んだ。

それも午後9時半で切り上げて、ろぐの更新もせぬまま、翌朝始発電車で出勤。

ありものの資料を手当り次第にバタバタとつなぎ合わせて、超間に合わせで仕事を仕上げそれを職場のボスと一緒に、会社のエラい人に説明してこの件を終えた。

「何か今回の資料はやる気が感じられんなあ」とは誰も口には出さないけど、誰の目にもわかってたはず。はあ〜。最高に空しい3日間だった。

どうしてこうなってしまうのか、説明するのはやめておく。難しいことではないし、嫌いなことでもないんだけど。

家でジンを飲んだのは本当に久しぶり。でも700mlとかのボトルでなくて、200とか350mlとかのサイズの方が扱いやすいな。飲み過ぎることもないし、気が抜ける前に3日ほどで飲み干せてしまう。

マティーニやジントニックもうまいんだけど、ジンの基本はやっぱりストレートかな。ちょっと強いけどその刺激とあの香りをあおるのは、時にいいものだよ。

一杯いかが?


1/14/2013

1970年のウェイン=ショーター

長い冬休みから明けた仕事始めの1週間はそれなりに長かった。お休みの最終日の夜なんかは「会社行きたくない病」の発作をなんとか鎮めようと、焼酎を半分やけも手伝って結構呑んでしまい、仕事始めの朝は予定より大幅に遅れての出発になった。

やらなければならない仕事(大したものではない)を、手当り次第にばったばったと倒している間に5日間が過ぎ、無事に成人の日を含めた3連休に滑り込んだ。

連休初日は今年の「歩き初め」で大さん橋にも行けた。家を出るのが早過ぎて日の出の30分も前に着いてしまったので、それを拝むことはできなかった。空気は思いのほか冷たくてあまり身体が温まることはなかった。

その日は家族3人でも出かけ、みなとみらいから赤レンガ方面をうろうろしているうちに暗くなってきたので、夜ご飯を関内の居酒屋「かっぽうぎ関内店」で食べて帰った。たまたま通りかかっての飛び込みだったけど、なかなかいいお店、安くて美味しい。

日曜日には風邪気味のママを家に残して、子どもと2人で「こどもの国」へ。存在はずっと以前から知っていたけど、訪れたのは初めてだった。

入園料大人600円と知った時は「えっ、金いるの?」と思ったけど、広い園内を実感すればまあこのくらいは仕方ないかな。

すべてを回りきることはできなかったけど、それなりに楽しむことができた。お弁当はなにか外で好きなもの買って行った方がいいかな。今度はママと3人で行こうね。

成人の日は横浜では久しぶりに見るまとまった雪の1日。朝は雨だったのが午前中から雪になり、昼過ぎにはあっという間に10cm近く積もって、近所の子どもたちも交えて雪だるま作りなんかも楽しめた。

年末あたりからじっくり聴く音楽がブルーノートに偏り始めたのだが、それがお休みに入ってからウェイン=ショーターに絞り込まれ、その状態がいまも続いている。別にももクロばっかり視聴してるわけではないのですよ。

ショーターはいろいろな意味で独自性のある人だ。独特のフレージングしかり、独自の作曲作品しかり、そしてキャリアの点でもユニークな人だと思う。

幼い頃から興味を持ったのは絵を描くことで、楽器を始めたのは15歳の頃だと言う。ミシン工場で稼いだお金で入学した音大を出てすぐに徴兵され、入隊した陸軍では狙撃の名手となって慰留されるも、自らの意思で除隊してプロミュージシャンの世界に入る。

即に頭角を現して除隊の翌年にはアート=ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズに入って音楽監督に就任。すぐにマイルスの目にとまるも、さすがのマイルスもジャズ界のドンのグループからショーターを引き抜くことはできぬまま、5年が経過する。

マイルスがようやく彼を引き入れたのは1964年のこと。そこからの6年間は言わずと知れた「黄金のクィンテット」として数々の名演を名作を残すことになる。

そして「ビッチズ・ブリュー」「イン・ア・サイレント・ウェイ」を経て、1971年位にジョー=ザヴィヌルとウェザー・リポートを結成。それが1985年まで続くことになる。

ところが、こうした「影のリーダー」的な25年以上のキャリアの最中でも、ショーターは自己名義のリーダーアルバムを15枚も出していて、ちゃんと自分の世界を堅実に表現し続けてきている。これは実は相当スゴいことだと思う。

メッセンジャーズでもマイルスでもウェザーでも、ショーターなしには決してなし得ない音楽を出す一方で、当の本人はそこではあくまでもボスを立てて脇役に徹しながら、したたかに(と言っては怒られるか)自分の世界はそれとしてやり続け、1985年のウェザー・リポート解散後から、本格的に自分のグループを持って活動を始めているのである。

僕は気がつけばショーターのソロ作品はほとんど全部持っている。どれも素晴らしいのだけど、今回お祭り状態になっている中心は、1970年に制作された2つのアルバム「モト・グロッソ・フェイオ」と「オデッセイ・オブ・イスカ」だ。

と、ここまで書いて...んんん〜なかなか言葉が出て来ない。この素晴らしさをなんと言葉で表現したらいいのか。

これまでも別のところでそう言う表現使ってきたと思うけど、「緻密」で「濃厚」な「構成」、そして「瞬間性」と「偶然性」がもたらす「驚き」と「スリル」、それらが一体になっているとでも言うのだろうか...やっぱり音楽の前では言葉は無力だ。

2つの作品は、当時のショーターが大きな興味を感じていた南米の芸術からの影響と、マイルスからウェザーへという過渡期に録音されたという点で、そうした時代の音楽との関連性が共通に感じられる。しかし音楽性は微妙に異なっている。

「モト...」は、即興性や実験的な色彩が強く、ブルーノートが録音後しばらくはこれを発表するのをためらった。

なにせあのチック=コリアがドラム&パーカッションで参加していることからも、ショーターがここでやろうとした音楽が、従来的なものの延長というより、土着的かつ原始的(つまりは即興的)なものに軸を求めている様に思える。

そこで展開される内容は、どこまでが紙に書かれたものでどこまでが即興なのか、容易に窺い知ることはできない。しかし、それは音楽として文句なしに「絶妙」なのである。

アルバム最後に置かれた(おそらくは)集団即興の作品「イスカ」は、冒頭のタイトル曲とともにショーター・ミュージックの白眉である。

そして、その「イスカ」の「長い旅」と題されたもう一つのアルバムでは。音楽の構成は従来のジャズと同様に、テーマとそのハーモニーに基づいたアドリブというスタイルをとりながら、南米の音楽に素材を求めたある意味「聴きやすい」作品に仕上がっている。

この広大で豊かなな自然を思わせる音楽の美しさはどうだろう。やっぱりショーターの作曲家としての能力を改めて実感させられる。

しかし、よーく聴き込んでいくと、これまた凄まじい世界が繰り広げられているのがわかる。まずもってロン=カーターとセシル=マクビーのダブルベース!これがスゴい!加えてジーン=ベルトンチーニの妙にウネウネするギターもぞくっとキモい(ほめてます、笑)。

同時にアルバムのところどころで、「モト...」での試みがしっかりと存在感を示していて、これがまた「絶妙」な引き立て役になっている。ただただ唸るばかりである。

いずれもアルバムジャケットにショーターのポートレートを使用していて、これがまたカッコいい。

2つの写真を眺めていると、この人が、子どもの頃は絵が好きで漫画家を志したこととか、元陸軍の狙撃の名手だということとか、著名なジャズアーチストの引き立て役を務めつつ、自分の世界をしっかりと築き上げてきたこととか、そういうことが妙に納得できてしまう。

この人は決して控えめな人ではなく、強い野心を持った人だ。自分の思いを実現するために、何が必要でどうすればよいのかをしっかりと見定め、それを着実に実現に移していける人だ。

そんなことを考えるうちに、ふと自分は一体何をしてきたのかなと考え、なんとも空しい気持ちが心をよぎる。ショーターに比べればほとんどの人はそんなものだとは、言われなくてもわかってはいるのだけれど。でもね...。

ショーターは今年で70歳を迎えるらしいが、間もなくブルーノートから久しぶりのアルバムが発表されるのだそうだ。いまからとても楽しみである。


1/06/2013

紅白歌合戦からの雑感

2013年のあけましておめでとうございます。本年もえぬろぐをよろしくお願いします。

今回は年末大晦日の「第63回NHK紅白歌合戦」を視て思ったことなどを少し。

ももクロちゃんが初出場ということで、本当に久しぶりに最初から最後まで視た。テレビを2画面設定にして、一方でMacでウェブ画面を開いて前回のろぐを書きながら、もう一方の画面で紅白をつけ、音声はそちらから流れて来るものを楽しんだ。

ももクロちゃんのステージはとてもよかった。後半紅組一発目の自分たちの出番では、最新曲の「サラバ...」(やっぱり最初はちょっと緊張してたね)と、グループの代表曲「怪盗少女」をメドレーでつないで、いまはもういない結成時のメンバーへのオマージュも併せ、ファンには嬉しい素晴らしいステージを見せてくれた。

加えて、前半での細川たかしのバックダンサーならぬフロントダンサーとしての応援では、やっぱりダンスのキレに彼女たちらしさがよく出てたと思う。あれはいい場慣れになったんじゃないかな。NHKさんの確かな気遣い(?)が感じられました。

彼女たちが出るというので、こうして久しぶりに視る気になったわけであるが、それがなければ僕はこの番組には結構冷ややかな態度を取り続けていただろうと思う。しかし、今回これを通して視ることで、ももクロちゃんのこと以外にもそれなりに得るところもあり、決して悪くない印象を持ったことは事実であった。

僕の感想はざっくりと2つの軸で整理できると思う。1つは「女性より男性」ということ。そしてもう1つは「量より質」ということだ。

ももクロちゃん達のことはちょっと別にして、今回の紅白におけるベスト3のパフォーマンスをあげるとするならば、僕は文句なしに、矢沢永吉、斉藤和義、美輪明宏をあげたい。この3者の音楽は僕にとっては圧巻そのものだった。

僕は決して永ちゃん推しの人ではないし、アルバムは1枚も持っていない。だけど会場のNHKホールで生で演奏された彼のパフォーマンスにはやっぱり凄まじい「本物」を感じた。バンドもスゴかった!(あのギターの人って山本恭司さんだよね?)申し訳ないが、続いて登場したEXILEが何とちっちゃく見えたことか。

同じ特別企画で出演したMISIAも確かにウマいが、やっぱりパフォーマーとしての人間的な存在感では、他の人と変わらず、壮大なアフリカの情景が演出上それを補った感は否めなかった。

斉藤和義もまともに聴いたのはこれが初めてだった。記者会見などで話す姿に(失礼ながら)何じゃこの人?とか思っていたのだが、やっぱり音楽はスゴかった。僕にはギターのイントロからもう引き込まれてしまった感じ。決してロックだけを贔屓にしているわけではないつもりだけど、やっぱりスゴい存在感だった。

美和明宏の「ヨイトマケの唄」については、以前にNHKの音楽対談番組でこの作品に関する自伝的なエピソードを、美和さん自身が語られていたので、ある程度は理解していた。

その所為もあって歌にはすんなりと入ることができたのだが、やっぱり生で歌う姿には、紅白に出場しているいわゆる「大御所」と言われる人たち、北島三郎とか五木ひろしとか、そういう人たちも手の届かない処に行ってしまっている美和さんの圧倒的な存在感に、もう黙って視ているしかないという感じだった。

「女性より男性」と書いたのは、紅白という番組の企画自体がそうなっているから余計にそう感じるのかもしれないけど、これがいまの日本を代表する歌い手たちなのだとすれば、女性の中にはこうした存在感を感じさせる人がいなかったということ。

プリンセスプリンセスはもちろん、和田アキ子も石川さゆりも、先にあげた3者に比べれば影が薄い。いきものがかりはさすがに紅組トリということもあって、何か不思議な存在感を感じないではなかったが、やっぱりまだ確たる感じにはつながらない。

もちろん、中島みゆきや松任谷由実、あるいは(もういないが)美空ひばりなんかが出てれば、また違う感想があるのかもしれないとは思う。今回については、白組が勝ってしまうのは仕方ないことだと思わざるを得ない。

「量より質」と書いたのは、ある意味「強い個性」で圧してくる僕がスゴいと感じた人たちに対して、なんと言うか事務所がビジネスで作り上げた様なアーチストたちの表現する内容の、見た目の派手さとは裏腹にある曖昧さや未熟さを強く感じた。

こういう人たちは、ビジネスの世界で音楽タイトルの売上げ数とか、ランキングとか、イベントの観客動員数と言ったような、物量的にはスゴい記録を持つ人たちなのだが、紅白のような場で演じる内容を視ていると、こういう人たちのやっていることと、そういう数字の関係がなんだかよくわからなくなってくる。

なぜそんなスゴい数字があるのか。数分間の歌では表現できないということなのだろうが、だとしたらなぜここに出てるのかとか、そんな(所詮意味ないのかもしれない)ことをどうしても感じざるを得なかった。

ひとつだけ例をあげるなら、SMAPなんか決して芸歴は短くはないし、アイドル界では間違いなく大御所なのだろうが、その人たちの歌がこんな程度の内容で、別の何かで存在感を示したかといわれればそう言うわけでもなく、これが番組のトリなのかという大きな物足りなさがあった。

ビジネスとして成功を収めることは重要だが、一方でこの世界ではそうした物量だけを追求するようなモデルは、芸としての実力や実体を伴わない、「そこそこの」結果を残すだけなのだということを、あらためて感じたように思う。だからやっぱり一生ものの仕事ではないのだろう。

その昔、テレビの歌番組が全盛だった頃、音楽にこだわる一部の大物アーチストがテレビ出演を拒み続けていた。その理由に「たった3分間で自分の音楽は表現できない」みたいなことを言った人がいて(永ちゃんではなかったと思うが)、カッコいいこと言うなあと感じたのを思い出す。

でも、今回こうして視てみると、永ちゃんなんかが1曲でスゴいと思わせてくれたのに対して、テレビ慣れしている若手タレントは、歌おうがしゃべろうが視ていてスゴいとは思わせてくれず、ただ「器用に」仕事をこなして時間が過ぎていったのは、なんとも皮肉さを感じた。

まあ、僕が好きなももクロも、結局いまのところはそうした世界の子たちなのだろうが、僕自身はそういうこととは違う目線で見ているつもりなんだけどなあ。まあ他のアイドルと言われる人たちのファンも、多かれ少なかれ同じようなものなんだろうけど。

結成4年目にして、紅白や武道館といった大きな目標を達成してしたももクロちゃんたちが、新年早々に次の目標を「国立競技場でのライヴ」に置いたと聞いたとき、僕も引き続き彼女たちを応援して行こうという想いの一方で、目標そのものにある種の違和感を抱いたのも、正直なところ事実ではある。

「大きな目標!うん、頑張れ!」の一方で、「なぜいまさら国立競技場?それがももクロらしさか?もっと他にあるんじゃないのか?」とも感じた次第。やっぱり事務所が掲げる目標なのだろうか。数は体を表すのは...必ずしもそうじゃないよなあ。いろんなことやって、国民的なアイドルを目指すということなのだろうけど。

少し変な展開になったけど、「歌で、会いたい」をテーマに掲げた、昨年の紅白歌合戦は、いろいろ考えさせてくれるところがあって、それなりによい番組だったと思う。

「歌」ということをしっかりと真摯に追求する姿勢は、量の世界ばかりを意識する民放の年末歌特番とは一線を画す内容で、さすがNHKだと思った。今年また視るかどうかは...わからないけどね。