1/30/2011

おにごっこ

今週は少し音楽の話など書いてみたいと思っていたのだが、日曜日の夕方に想定外の運動を強いられて足腰がガクガクになりそうな気配である。なので今回はその理由を簡単に書いて終わらせたい。

近所の子ども達はいい子ばかりで、まだ2歳になっていないうちの子どものこともよく可愛がってくれる。今日も夕方に3人で買い物から帰ってくると、何人かの子ども達が家の前で遊んでいて、我々の姿を見つけるとわーっと集まって来てくれた。

僕は先に家に入ってしまったのだが、妻と子どもがなかなか上がってこないので、また様子を見に外に出た。これがそもそもの始まりである。

詳しいいきさつ(たいしたことではない)は省略して、要するにその子達のおにごっこに僕が参加することになった。もちろんオニは僕だ。

相手の子どもは全部で6人。一番上の子が小学校3年生、下の子はまだ幼稚園の年長さん。その子を狙うのは可哀想なので、せめて小学生たちをターゲットに、自分の子どもの様子を気にしながら始めたのだが、とにかく全力で走るということがない生活がもう何年続いてることか。本気で走り始めてすぐに、最近職場で相次いだ同年代の足の故障が頭をよぎった。

今朝も本牧山頂公園コース8000歩1時間のウォーキングをしたところだった。しかしおにごっこで走るのは短距離走の様なものである。これが思いのほかきつかった。結局、せめてフェアに行くには一番年上の3年生の女の子をターゲットにと思ったのだが、運動会のリレー選手だと言う彼女には追いつけないということがわかった。

しかも、相手は突然止まって方向を変えたりと身のこなしがすばしっこく、あれにまともに応じていたらいつ身体を壊すかしれたものではない。

先ず呼吸があがってしまった肺が少し痛んだ。それから腿が思ったように加速してくれなくなる。やがて全身に入る力が弱くなる。いわゆるスタミナ切れである。

結局、何週目かで敢行した奇襲作戦が功を奏して、目標の女の子をとらえてオニを交代することができたのだが、もう身体は限界であった。父のはしゃぐ姿に興奮気味のわが子の手をとって連れ帰りながら(「地獄の黙示録」のラストシーンのようだ)、子ども達にバイバイした。

あれから6時間。妻の配慮でゆっくり風呂に浸からせてもらったが、明日の朝起きるのがコワい。すでに右の腿の痛みがで始めている。こういうとき酒はどういう効能があるのかわからないが、久々に買った日本酒をやりながらあと少しの休日を楽しみたい。

ということで、今日はここまで。

(追伸)そんな状況にもかかわらず、夜ご飯で念願のグラタン作りに挑戦。初めてにしてはなかなかいいできだった。

1/23/2011

小さなJBLがやって来た

年末年始は風邪ひき以外にもいろいろなことがあった。今回はJBLがわが家にやって来たお話。

年末あたりからリヴィングのオーディオで音楽を聴いていると、どうも低音がビビるのに気づいた。前にも書いたかもしれないが、わが家で使っていたスピーカーは僕が大学生の時に、はじめて自分用のオーディオセットとして買ったもの。当時はやりのブックシェルフ型ミニコンポスピーカーだった。もう27年前の代物である。

置き方が悪いとか、ケーブルかなにかが振動に共振してビビっているのかなとか思いながらも、ちゃんと原因を調べないままそのまま広島に行ってしまった。そしてすっかり風邪を引いた僕は独りで帰って来たのである。

体調が悪くて家にじっとしているしかないわけだから、当然音楽は聴く(寝てろよ)。やっぱりベースがビビる。全然大した音量でもないのにだ。これは一度セッティングからしてちゃんと見直してみよう(断っておくがそんな大層なオーディオセットではない)と、スピーカーケーブルを外してスピーカーキャビネットを持上げた途端、「カサカサカサ」と枯れ葉が散る様な乾いた音がした。

え?っとスピーカーをまじまじと見ると、本体を保護するネットの向こうで黒い何かの切れ端の様なものがいくつか目に入る。慌ててネットを外した僕は、低音用のスピーカー(ウーファーといいます)に張られた紙(コーンといいます)が、ボロボロに崩れているのを目の当たりにしたのである。

もしやと思って反対側のスピーカを見てみると、こちらもまったく同じ状態。これは一体・・・?寿命?虫かなにかに喰われたの?子どもがいたずらして破ったのか?それにしてはコーンの外周の部分だけがボロボロになっている。そのとき、妻が言っていたあることを思いだした。

12月半ばのある平日に、ママ友と子どもたち数組がわが家にやって来てクリスマス会をした時のこと。部屋にはオーディオでBGMを流しながら、子ども達にはテレビで子ども向けの番組を流しておいて、ママ達はダイニングテーブルでワイン片手(結構なことで・・・)おしゃべりをしていたところ、突然部屋に大音量で音楽が鳴り響いたのだそうだ。

あまりの音量に子ども達は一斉に大泣きだったそう。見ると子どもの誰かが、アンプのヴォリュームつまみをおもちゃの様にエイとばかりに回していたのだそうだ。

27年現役で鳴り続けた老いぼれスピーカー。ウーファーのコーン紙はもう潤いなどとうに失ってかさかさだったに違いない。あわれにもその衝撃に耐えられず、コーンは最も振動が激しくなる外周の接合部分でばりばりとひび割れてしまったというわけである。

もちろんこれは僕の推測なのだが、両方のウーファーがほぼ同様にダメージを受けていたのが、何よりの根拠である。先ず間違いないだろう。もちろんその子達を責める気はさらさらない。スピーカの間近にいて耳がどうかならなかっただけでも幸いなことである。

もはや修理は不可能。もちろん交換の部品などあてにはできない。これはもうスピーカーを買い替えるしかなさそうだ。本当なら、秋葉原のオーディオショップにでも出向いて、あれやこれやと聴き比べ、と行きたいところだが、当の僕は風邪ひきである。まあ実を言うとそれほどオーディオセットにこだわりがあるわけではない。ただ自分の思い入れの音楽を毎日聴くものだけに、あまりに安いもので失敗したら後々後悔どころではすまないはず。

せめて音は聴けないにしても、いくらくらいでどんなスピーカーがあるのだろうとネットで調べているうちに、すっかりいくつかの品に狙いが定まり、その日の夜にはあっさりと購入ボタンを押してしたのである。それがJBLの小型モニター4312M2である。

JBLはいまでこそ欧州系の新興ブランドに押され気味だが、ホームオーディオというものが趣味の世界として確立した頃から、最高級品として知られた一流老舗ブランドである。僕らの世代より上の人で一度はオーディオにこだわりを持ったことがある人なら、誰もが憧れを持ったはずである。

4312M2はそうした往年の銘記のイメージを引き継ぎながら、現代の流行やニーズに合わせて製作された小型モニタースピーカーである。JBLというブランドを信頼して、ペアで5万円前後という値段に妙なバランス的納得感を抱いた僕は、すーっとこの商品に引きつけられていったというわけである。

届けられたスピーカーは思ったよりもコンパクトだった。おかげでテレビ周りがすっきりした。しかしこんな小さなもので十分な低音が出るのか。そもそも本当に満足のできる音が出るのだろうか。

セッティングを済ませておそるおそるアンプのスイッチを入れる。最初に聴くソースにはJBLらしく(?)ロックにしようということで、フリートウッドマックの「噂」を選んだ。これは大晦日に兄の家にある超高級セットで聴かせてもらった印象が鮮明に耳に残っていたので、それと比べてどこまでの音なのかが感覚的にわかるかなと思ったから。

果たして出て来た音は・・・えぇ、なんかしょぼい。パンチも何もない情けない音。はあっとため息が漏れる。しかし、ここで気を落としてはいけないのである。

オーディオ製品、とくにスピーカーにはエイジングということを忘れては行けない。自動車やオートバイもそうだが、機械というものはまっさらの状態で最高の性能を発揮するのではなく、少し作動をつづけて慣らされたころから、本来の性能を発揮し始める。オーディオの場合、スピーカーはその最たるものである。その慣らしのことをエイジングと呼ぶのである。いろいろな説や機種による特性はあるものの、それほど時間がかかるものではない。

慣らし代わりにといろいろな音楽を大きめの音量でひたすら流す。妻や子どもが家にいなかったのは幸いだった。3時間ほどそれを続けて、いったんアンプの電源を切って僕は夕食の買い出しに出かけた。戻って食事をとって再びアンプのスイッチを入れ、何かスピーカーの試し聴きにいい音源はないかと考え、録音が新しくシャープでタイトな演奏が満載であるジョン=マクラフリンの「トゥ・ザ・ワン」を聴いてみた。

果たして出て来た音は「これがJBLだ!」と僕が納得できるに十分なものであった。5弦ベースやバスドラムの迫力から、マクラフリンのピッキングニュアンス、そしてシャープなビートを刻むシンバル、素晴らしい「鳴り」を実感した瞬間だった。よかった。

大きさの問題もあり、低音が十分満足かと言われればもちろん必ずしもそうではないが、やはり最新のスピーカーは性能がいいとあらためて実感した次第。そして古いスピーカーは市の粗大ゴミに出してしまった。いまさら未練がましく思ったところでどうしようもない。

ということで、わが家に小さなJBLがやってきました。気分的にも何か新しいことの始まりを感じられて結果的にはいい事件であった。20日ほどが経過したが、低音はさらによく出る様になった様に感じる。このところこれでフリー系の演奏を楽しんでいる。とてもいい買い物でありました。

1/16/2011

デヴィッド・S・ウェアの咆哮

年末から寒い毎日だが、この週末は一段と冷えた。

日曜日の今朝も5時半に起きてウォーキングをしたが、戸外に停めてある自動車のボディーはことごとく霜が降りて、まるでうっすらと雪が積もったかの様に真っ白だった。

横浜スタジアムの隣に建つビルの屋上に表示されている温度計は零度を示していた。大さん橋から港の波間と朝日を眺めようと行ったものの、ウッドデッキが一面霜に覆われていて、残念ながら桟橋に立入ることができなくなっていた。

この寒さで、朝、走ったり歩いたりしている人はめっきり少なくなった。しかしペットを散歩させる人の姿は相変わらず見かける。こんな寒い朝にわざわざ早起きして何かをする際には、通常よりも強いモチベーションが必要になる。独りで歩いたり走ったりすることについては、なおさらそうだと思う。いっしょに出かける家族や仲間の存在(ペットも含め)というのも、意外に大きなモチベーションになるところもあるのだなと思った。

僕の場合は、最低限の体力維持ということの他に、日常ではあまり着ることのないウェアを身につけて外に出るという欲求、あとは人気の少ない世界を肌で感じたい、その程度の理由で氷点下の早朝にでも起きて出かけるのが楽しいと思っている。だから、普通の格好でたらたら歩くのではダメで、昼間や夕方でもダメなのだ。

さて、寒さとは関係ないと思うのだが、このところ耳にする音楽はフリーインプロヴィゼイション関係が多い。通勤の行き帰りや、妻と子どもが就寝した後のひと時など、音楽をある程度じっくり聴ける機会のほとんどはそういう音楽に接している。David S. WareやWilliam Parker、あるいはAnthony Braxton、Ken Vandermarkといったアーチストを中心に、手持ちのものだけでなくあらたにCDやダウンロードで作品を買い集めている。

少し言葉は適当でないかもしれないのだが、やっぱり自分にとってはこの手の音楽を聴くことで心が落ち着くのだ。ストレスの解消と言ってもいいのかもしれないし、何か満たされない欲求、映画が観たいとか本が読みたいというのと同じ意味で、を満たしてくれるのだ。ここからはなかなか離れられそうにないようだ。そしてそれは単に聴くだけではなく、たぶん演奏するということについても。

今回は、David S. Wareのことを少し。"Live in the World"について書いたのはもう5年以上前のことだが、昨年久しぶりにあれを聴いたあたりから、いまのフリー系傾聴の状況が始まっていると思う。

あれ以後、彼の作品は買っていなかったのに今回また聴き込んでみたのをきっかけに、彼の経歴や他の作品についても強い興味を覚える様になった。これは危険信号であるので自制的な対応を意識しているつもりだが、いろいろなウェブサイトに書かれていることを参考にしながら、CDとダウンロードで1つずつアルバムを買ってしまった。

素晴らしかったのは、1997年のオランダでのソロパフォーマンスを収録した"Live in the Netherlands"。4つのトラックに分けられた40分間程度のテナー1本によるステージが収録されている。実際には、各トラックの中がさらにいくつかのモチーフに基づくパートに分かれていて、パフォーマンスとしての一貫性とは別に、個々の楽曲としての独立性を保っていて、そういう明確な構成がこの作品を親しみやすいものにしていると思う。このあたりにウェアの才能が存分に発揮されている。

興味深いのは、マイケル=ブレッカーがアルバムのライナーノートを書いていること。マイケルとウェアは高校生の頃にバークリー音大の夏期講習をともに受講した仲なのだそうだ(うらやましい高校生活である)。さほど長くない文章からは、コルトレーンフリークとしてサックスに取り組んで来たマイケルに、ウェアの演奏が自分以上にコルトレーンに近い存在と感じられ、僕にはそれが尊敬というより嫉妬にも似た思いだったように読み取れた。

それを読みながら演奏を聴くとどうしても耳がそれに影響されるものだが、マイケルほどの人がわざわざライナーノートとしてそこまでのことを書いているわけだから、実際に演奏を聴いて納得できないわけがない。聴けば聴くほど40分間という時間があっという間に過ぎてしまう。

フリーフォームのサックスソロを何十分も聴くというのは、一体どういうふうに音楽の世界に入っていけるのか戸惑いや不安を覚えるものかもしれない。それは生の演奏を体験することでかなり敷居が低くなるものだと思うのだが、こうして記録されたものがあれば、何度か繰り返して聴いてみることで、生演奏に限りなく近い体験を得ることができるのだと思う。

たった独りで、思いのままに、野心的に演奏する。それが素晴らしい結果となって表れた貴重な記録である。しばらくはウェアの咆哮にのめり込むことになりそうだ。

(この作品はアマゾンなどでは取扱い中止になっているが、僕はアランの店で買うことができた)

1/10/2011

ノルウェイの森

ようやく風邪が治まりつつある。このタイミングでの3連休は本当にありがたい。金曜日には広島から妻と子どもが帰って来て、またいつものにぎやかなわが家がもどってきた。

2日遅い仕事初め以降、2人が帰ってくるまでの間はもっぱら夜は外食で済ませた。やまて食堂でコロッケやしょうが焼き定食をほうばったり、木曜の夜はほうちゃんで年末に続いて「独り呑み初め」と相成った。復調してようやく「やまての味」を遅いおせちに楽しんだというところ。どれもこれも安くて素晴らしい。


ところで、元々お正月は独りで横浜に帰ってきてからやりたいことがあった。それは映画を観ること。お目当てはトラン・アン・ユン監督の「ノルウェイの森」。

妻や僕が好きな村上春樹のベストセラー小説の映画化ということで、気になっていたのが半分と、子どもが生まれてから劇場に行くことがなかったので、僕が先に観て面白かったら妻にも行かせてあげようと思ったのが半分というところ。白状すると、会社を休んだ2日目の昼には、ずいぶんと気分がよくなって来たので、桜木町のブルク13に出かけたのだ。

原作は30年近く前に発売されて以来、400万部以上を売り上げ世界中の言語に翻訳されたベストセラー。僕は社会人になったばかりのころに、一度だけ読んだ。記憶に残る小説のイメージはかなり薄れかかっていたが、だからといって映画を見る前にもう一度読むつもりはない。別に小説と映画の関係に期待しているわけではないから。映画は映画、小説は小説だと思うし、わざわざ「原作〜」とか"based on..."と断ってるのだから。

内容は素晴らしいものだった。思った以上に原作の小説にかなり忠実な作りになっている。話の中心に位置する松山ケンイチ、菊地凛子、水原希子を始めとするキャスティングも非常に的確である。少なくとも僕にとっては原作を深く表現できている映画化であり、映像や音楽など映画ならではの新たな魅力もたぶんに持ち合わせた作品だった。

作品のテーマがああいう内容なので、かなり個人的な想いと結びついた感想を抱いている人が多い小説だろう。大きな分かれ目は直子という人物に対してどの様な想いを抱くかだと思う。それがそのまま菊地と言うキャスティングへの賛否に反映すると僕は思っている。

個人個人の想いだからそれはそれでいいのだろうが、「純愛小説」なる売られ方をした結果寄せられたいくつもの映画化やドラマ化の話をことごとく断って来た村上氏の想いも、同じ様なところにあったのではないかと勝手に想像している。

30年間で変わったのはやはり日本の新しい文化の国際化ということか。小説が国内でベストセラーとなった当時、当の村上氏を含めこの様な展開を予見できた人はいなかったのではないか。一部の経済界のおかげで経済思想の多くがいつまでもしがみつく「ものづくり」が明らかに色褪せるなか、こういう現象が台頭してくるのはいいことだ。

久しぶりに観た映画だったので、余計に清々しい気分になれた。


3連休最終日の今日は、2週間ぶりの早朝ウォーキングにも出かけた。冷たい風が強かったが、1時間8000歩のコースを行くのはとても気分がよかった。あらためて健康のありがたさを実感した。

1/05/2011

年明早々体調崩す

あけましておめでとうございます。
本年もえぬろぐをよるしくお願いします。


年末から妻の実家と兄が住む広島に帰省したのだが、少し咳が出ていた状態で向かった先は折からの寒波、広島は横浜に比べて2〜3度気温が低いので、身体がすっかり冷え込んでしまった。

元々人間は、新しい環境では緊張で肌の感覚が敏感になるからか、こういう時は余計に寒く感じてしまうようだ。加えて慣れないエアコン暖房による乾燥などもあって咳はヒドくなり、身体の調子がすっかりおかしくなってしまった。

所持していた解熱剤の劇的な効果で、なんとか予定通り2日に単身横浜に戻るも、今度は体温が下がってしまって、どうしたわけか悪寒が続いて眠れない。濃い緑色の痰が特に朝を中心に激しく出る。気管支炎状態か。安易に解熱剤を飲んだのを後悔した。

結局、新年の出勤を予定した4日5日は、自宅で独り静養ということになってしまった。医者で処方された抗生物質が効いて、痰も少なくなりようやくまともになりつつある。

そんな日々でもそれなりにいろいろなことがあった。それについては、また追い追い書くことにする。

皆様、寒さと乾燥にはお気をつけください。