ろぐの更新が遅れてしまった。
先週の週末に叔母と僕と妻の3人で、父親を病院から彼が生まれ育った実家に連れ出したことなど、書きたいことはいろいろなのだが、例によってまたbloggerの調子が悪かったり、そうこうしているうちにちょっとしたアクシデントが起こってしまった。
火曜日の夜に、僕が会社に入ったばかりの頃の上司(当時の部長)が、このたびめでたく会社生活から引退されるということで、当時のメンバーでちょっとしたお別れ会が開催された。その会場となった新宿の居酒屋で、階段から足を滑らせて転倒してしまい、不覚にも左の肋骨を3本折ってしまった。全治3週間から1ヶ月だとのことだ。
特に入院したり手術したりするわけではなく、胸にコルセットを巻きつけて日常生活を送りながら治癒を待つというスタイルなのだが、いまはまだ折ったばかりなので打撲の痛みもあって少々つらい。
また調子のいいときに少しずつ書いていきたいと思う。骨を折ったと聞くと少しびっくりするかもしれないが、日常生活ではすべての動作がゆっくりになるというだけで、特に大きな不自由があるわけではない。とりあえず僕は元気ですから、どうかご心配なく。
6/16/2007
ミワコ=アベ「ヴァイオリン作品集」
父の具合を案じながらの1週間がまた過ぎた。今週は妻も仕事が忙しく、久しぶりに会社帰りに外で友達と飲んで帰ることが2度あった。1度は、妻の会社の人で、以前からよく飲みに行っている男と、僕の自宅に比較的近い新丸子のお店で夜を楽しんだ。彼もたまにろぐを見てくれていて、父ことをいろいろと心配してくれていた。彼自身に関する、昔の話から近況に至るまでのいろいろなお話を聞かせてもらううちに、僕の心の中にある悩みや苦しみも少し相対化されて、冷静に考えられるようになった。こういうとき、話せる友達というのは本当に大切だ。
もう1回は、珍しく会社の同僚2人と会社がある田町で飲んだ。まあ必然的に仕事の話になるわけだが、そこはさすがに3人ともそろそろ会社での役割や立場を自覚している人間である。つまらん愚痴大会に陥ることもなく、何か久しぶりに少しまじめに仕事の話を酒の席でした様に思う(他の2人はそう思っていないかもしれないが)。まあ内容はともかく、うまいビールをたっぷり飲むことができた。東京は入梅したと思ったらすぐに真夏の気候になったから、旨さはまた格別だった。少しだけ父親のことから自分の意識が遠のいていた時間になった。
この週末に父を彼の実家に連れて行くという計画の実施を前提に、段取りや父の様子を見守る1週間だったわけだが、いろいろな事情があって今週末はそれを見送ることに決めた。仕事が特に忙しいわけではなく、こうしてビールを楽しむだけの時間的な余裕があるというのに、父を看てあげることができない。いろいろな経緯で、父や兄や僕の意思でこうした生活スタイルになっているのだが、やはりいざ今回のような状況になってみると、そのことがとてももどかしく、実際に和歌山に行って帰ってくるのに要する以上の、エネルギーがストレスとなって消費されるように感じられる。結果的にそのストレスを和らげてくれることの一つとして、こうした友人たちと楽しむひと時だったりビールがあるのは有難いものだ。
今回取り上げるのは、アランのお店Jazzloft.comで買ったクラシック音楽の作品。彼の店は、フリー、アヴァンギャルド系のジャズに加えて、クラシック音楽というかいわゆる現代音楽の取扱いも豊富である。つまり、まさに僕好みのお店ということになる。僕が彼の店から買うときは、CD1枚だけだと送料の関係でちょっと割りにあわないので、必然的に購入枚数が複数になってしまう。今回の作品は、アランから届いたダイレクトメールに推薦作品として掲載されていたもの。何かもう一枚というとき、お店の人のお任せで買うというスタイルは、こういう時代になってもしっかり機能している。
20世紀から今世紀にかけて活動している作曲家8人のヴァイオリン作品が収められているのだが、いわゆる「難解」という僕の嫌いな言葉のイメージで取られそうな作品はほとんどなく、非常に美しく親しみやすい作品が揃っている。8人の作曲家うち、僕が名前を聞いたことがあったのは、最初に収録されているヘンリー=カウウェルだけだった。 20世紀の代表的ヴァイオリニストである「シゲティに捧ぐ」と題された、彼が唯一残したヴァイオリンソナタは、コンパクトな5つの楽章からなるとても美しい作品。一度聴くと、とことん愛し続けたくなる音楽である。僕もアランの店の試聴でこれを耳にして、このCDの購入を決めてしまった。
演奏者のアベミワコは、日本人の女性ヴァイオリニストで、欧州で修業を積みいろいろな演奏活動を行い、現在はオーストラリアに居を構えて、現代の音楽作品に力を注いで幅広い活動をしている方なのだそうだ。僕はこの作品に出会うまで、彼女のことは知らなかった。
アルバムを通して聴くと、まるで全体で一つのソナタを聴いているかのような気分になる。これはこの様な作品集を作るうえでの一つの理想だと思うが、実際にはなかなか難しいことだと思う。理由の一つに、やはり作曲者や作品の知名度が先行してしまうことがあると思う。その点、今回の作品はその道の専門家を別にして、ほとんどのリスナーにとっては気にする必要のないことだと思う。音楽に限らず、こうした先入観を持たずに物事に向かう姿勢というのは大切だ。何か困難に遭遇したとき、自身にどこまでそうしたリセットをかけられるか、あるいは同じ状況にある同僚にそうした視点を持たせてあげられるか、これは様々な集団を扱ううえで重要なことだろう。
すべての作品がそれぞれに聴きどころを持っている。僕が特に気に入ったのは、冒頭のカウウェルのソナタと、中盤に収録されたチャールス=ドッジという人の「ヴァイオリンとテープのための練習曲」である。この作品中で唯一エレクトロニクスが登場する小品2曲であるが、これがまたアルバム全体の中で調和的な存在感を示している作品である。
昼間は暑かったが、夜には僕の住んでいる付近では涼しい強めの風が心地よく吹き流れている。風の音に合わさって、今回の作品にある先入観のない優しく繊細なヴァイオリンとピアノの演奏を楽しむのはいいものだ。いろいろと考えることはたくさんあるけれど、この作品の持つ世界に包まれるひと時は、僕に自分の進む世界の広大さと明るさを示してくれているように感じた。
Miwako Abe Move Recordsのサイトにあるミワコ=アベに関する紹介。
もう1回は、珍しく会社の同僚2人と会社がある田町で飲んだ。まあ必然的に仕事の話になるわけだが、そこはさすがに3人ともそろそろ会社での役割や立場を自覚している人間である。つまらん愚痴大会に陥ることもなく、何か久しぶりに少しまじめに仕事の話を酒の席でした様に思う(他の2人はそう思っていないかもしれないが)。まあ内容はともかく、うまいビールをたっぷり飲むことができた。東京は入梅したと思ったらすぐに真夏の気候になったから、旨さはまた格別だった。少しだけ父親のことから自分の意識が遠のいていた時間になった。
この週末に父を彼の実家に連れて行くという計画の実施を前提に、段取りや父の様子を見守る1週間だったわけだが、いろいろな事情があって今週末はそれを見送ることに決めた。仕事が特に忙しいわけではなく、こうしてビールを楽しむだけの時間的な余裕があるというのに、父を看てあげることができない。いろいろな経緯で、父や兄や僕の意思でこうした生活スタイルになっているのだが、やはりいざ今回のような状況になってみると、そのことがとてももどかしく、実際に和歌山に行って帰ってくるのに要する以上の、エネルギーがストレスとなって消費されるように感じられる。結果的にそのストレスを和らげてくれることの一つとして、こうした友人たちと楽しむひと時だったりビールがあるのは有難いものだ。
今回取り上げるのは、アランのお店Jazzloft.comで買ったクラシック音楽の作品。彼の店は、フリー、アヴァンギャルド系のジャズに加えて、クラシック音楽というかいわゆる現代音楽の取扱いも豊富である。つまり、まさに僕好みのお店ということになる。僕が彼の店から買うときは、CD1枚だけだと送料の関係でちょっと割りにあわないので、必然的に購入枚数が複数になってしまう。今回の作品は、アランから届いたダイレクトメールに推薦作品として掲載されていたもの。何かもう一枚というとき、お店の人のお任せで買うというスタイルは、こういう時代になってもしっかり機能している。
20世紀から今世紀にかけて活動している作曲家8人のヴァイオリン作品が収められているのだが、いわゆる「難解」という僕の嫌いな言葉のイメージで取られそうな作品はほとんどなく、非常に美しく親しみやすい作品が揃っている。8人の作曲家うち、僕が名前を聞いたことがあったのは、最初に収録されているヘンリー=カウウェルだけだった。 20世紀の代表的ヴァイオリニストである「シゲティに捧ぐ」と題された、彼が唯一残したヴァイオリンソナタは、コンパクトな5つの楽章からなるとても美しい作品。一度聴くと、とことん愛し続けたくなる音楽である。僕もアランの店の試聴でこれを耳にして、このCDの購入を決めてしまった。
演奏者のアベミワコは、日本人の女性ヴァイオリニストで、欧州で修業を積みいろいろな演奏活動を行い、現在はオーストラリアに居を構えて、現代の音楽作品に力を注いで幅広い活動をしている方なのだそうだ。僕はこの作品に出会うまで、彼女のことは知らなかった。
アルバムを通して聴くと、まるで全体で一つのソナタを聴いているかのような気分になる。これはこの様な作品集を作るうえでの一つの理想だと思うが、実際にはなかなか難しいことだと思う。理由の一つに、やはり作曲者や作品の知名度が先行してしまうことがあると思う。その点、今回の作品はその道の専門家を別にして、ほとんどのリスナーにとっては気にする必要のないことだと思う。音楽に限らず、こうした先入観を持たずに物事に向かう姿勢というのは大切だ。何か困難に遭遇したとき、自身にどこまでそうしたリセットをかけられるか、あるいは同じ状況にある同僚にそうした視点を持たせてあげられるか、これは様々な集団を扱ううえで重要なことだろう。
すべての作品がそれぞれに聴きどころを持っている。僕が特に気に入ったのは、冒頭のカウウェルのソナタと、中盤に収録されたチャールス=ドッジという人の「ヴァイオリンとテープのための練習曲」である。この作品中で唯一エレクトロニクスが登場する小品2曲であるが、これがまたアルバム全体の中で調和的な存在感を示している作品である。
昼間は暑かったが、夜には僕の住んでいる付近では涼しい強めの風が心地よく吹き流れている。風の音に合わさって、今回の作品にある先入観のない優しく繊細なヴァイオリンとピアノの演奏を楽しむのはいいものだ。いろいろと考えることはたくさんあるけれど、この作品の持つ世界に包まれるひと時は、僕に自分の進む世界の広大さと明るさを示してくれているように感じた。
Miwako Abe Move Recordsのサイトにあるミワコ=アベに関する紹介。
6/11/2007
デイヴ=リーブマン「バック オン ザ コーナー」
金曜日に会社からお休みをもらい、3週間ぶりに和歌山に帰った。
前回のろぐにも書いた通り、このところ父親の様子は病状こそ比較的落ち着いているものの、認知症的な症状、つまりボケた様な状況が出てきていて、自分がいまいる場所が分からなかったり、意味不明の(というかつじつまの合わない)言動を繰り返す様なこともあったりで、病院の人の手を焼かせてしまっている。先週早々にはまた例によって「家に帰る」を繰り返し、さすがに叔母も音を上げてしまい、とうとう仕方ないことに家政婦さんを病院に住み込みで雇うことになった。
父が入院している病院は「24時間完全看護」をうたっており、家族が同伴する必要はないということにはなっているが、実態はかなり異なる。彼のケースに限らず、病棟の同じフロアでもそうした家政婦の存在がかなり目につく。実際に家政婦を雇ってみて、家政婦とはこういう人ということがわかると、それが実感できる様になった。いままで付き添いの身内の人だと思っていた人の多くが、そういうヘルパーなのだ。完全看護とは名ばかりだ。いまの時代にはやや信じ難いことだが、これが特に地方における日本の医療の実態である。単に人が足りないということだけではない。ある意味においてサービスのレベルやプロとしての意識の問題なのだと思う。
今回は兄と一緒に2日間にわたって訪れた。僕等が着いて家政婦さんとは挨拶をして少し話をして、しばらく休みがてら外に出てもらうことにした。僕等だけになると、父はベッドから起き上がり、立ち上がろうとする。僕が支えてようやくベッドに腰掛ける姿勢に落ち着いた父は、しばらくして泣き出した。思う様にならない身体、言葉、意識、そして周囲の理解。息子達を前にしてもお構いなしにしくしくと涙を流すその姿に、かけてあげられる言葉は少なかった。
薬の効き具合やら本人の体調、精神状態その他いろいろな要因が重なり合うことで、父の意識や機嫌は目まぐるしく変わる。ただ、兄や僕ら、あるいは叔母がいるときは概して調子がよいので、やはり根本にあるのは寂しさが大きいのだろうと思う。こちらとしても非常に辛いところだ。可哀相だというだけではどうにもならない。本当に難しい問題である。
さて、前々回のろぐに続いて今回もリーブマンの作品を取り上げる。タイトルはマイルス=デイヴィスのエレクトリック時代の名作"On the Corner"をもじったもの。同作でサックスを演奏していたリーブマンによる、マイルストリビュート作品である。この作品もアランの店Jazzloft.comで存在を知って、購入したもの。ジャケット写真からのリンク先も彼の店になっているので、今日のある人は買ってあげてください。
メンバーとしてギターのマイク=スターン、そしてベースにアンソニー=ジャクソンが入っている。マイクもデイブとは時期が異なるが、マイルスグループのメンバーであった。彼の名を一躍有名にしたのはそのことが大きい。他にはトニー=マリノという人が時折スティックベースで参加する。
この作品で特に素晴らしいのは、なんと言ってもアンソニーのベースワークである。まあ彼のベースはどの参加アルバムを聴いてもハズレは少ないのだろうが、この作品ではロックビートのベースドラムにガッツリと合わせた「本当のベース」とでも言える演奏が存分に堪能できる。しかも、彼のトレードマークとなったフォデラの6弦ベースから繰り出されるねちっこい低音は、スピーカで聴いてみて「ああ、やっぱりこういうのがベースだよなあ」と心から感じさせてくれる演奏だ。その意味ではヘッドフォンやラジカセでの視聴はお勧めできない。
アンソニーはフュージョン全盛の1970年代後半から1980年代にかけては、かなりハイテクな演奏も披露していたが、最近は低音の魅力でのいかにもベースらしい演奏と、それでいて誰にも真似のできない個性を兼ね備えた演奏を同時に聴かせてくれる。今回のセッションは音楽の性格上、ライブセッションの荒々しさに溢れた内容であるが、アンソニーのベースは荒れ狂うソロイストたちをしっかり支える音楽の土台を見事にこなしている。
演奏曲目には緩急に富んだ様々なスタイルの音楽が繰り広げられるが、まるでライブハウスのステージを見るようなワンタイムセッションの生々しさが素晴らしい。アルバム全体を通して非常に楽しめる内容だ。最近眠ってしまっている自分のお気に入りのオーディオシステムをお持ちの方は、是非ともこの作品を楽しんでみることをお進めする。もちろん音は「大きめ」で、誰にも気兼ねしないでいい状況を作って臨んでいただきたい。21世紀においても、エレクトリックマイルスの真髄を彷彿とさせる名作である。
前回のろぐにも書いた通り、このところ父親の様子は病状こそ比較的落ち着いているものの、認知症的な症状、つまりボケた様な状況が出てきていて、自分がいまいる場所が分からなかったり、意味不明の(というかつじつまの合わない)言動を繰り返す様なこともあったりで、病院の人の手を焼かせてしまっている。先週早々にはまた例によって「家に帰る」を繰り返し、さすがに叔母も音を上げてしまい、とうとう仕方ないことに家政婦さんを病院に住み込みで雇うことになった。
父が入院している病院は「24時間完全看護」をうたっており、家族が同伴する必要はないということにはなっているが、実態はかなり異なる。彼のケースに限らず、病棟の同じフロアでもそうした家政婦の存在がかなり目につく。実際に家政婦を雇ってみて、家政婦とはこういう人ということがわかると、それが実感できる様になった。いままで付き添いの身内の人だと思っていた人の多くが、そういうヘルパーなのだ。完全看護とは名ばかりだ。いまの時代にはやや信じ難いことだが、これが特に地方における日本の医療の実態である。単に人が足りないということだけではない。ある意味においてサービスのレベルやプロとしての意識の問題なのだと思う。
今回は兄と一緒に2日間にわたって訪れた。僕等が着いて家政婦さんとは挨拶をして少し話をして、しばらく休みがてら外に出てもらうことにした。僕等だけになると、父はベッドから起き上がり、立ち上がろうとする。僕が支えてようやくベッドに腰掛ける姿勢に落ち着いた父は、しばらくして泣き出した。思う様にならない身体、言葉、意識、そして周囲の理解。息子達を前にしてもお構いなしにしくしくと涙を流すその姿に、かけてあげられる言葉は少なかった。
薬の効き具合やら本人の体調、精神状態その他いろいろな要因が重なり合うことで、父の意識や機嫌は目まぐるしく変わる。ただ、兄や僕ら、あるいは叔母がいるときは概して調子がよいので、やはり根本にあるのは寂しさが大きいのだろうと思う。こちらとしても非常に辛いところだ。可哀相だというだけではどうにもならない。本当に難しい問題である。
さて、前々回のろぐに続いて今回もリーブマンの作品を取り上げる。タイトルはマイルス=デイヴィスのエレクトリック時代の名作"On the Corner"をもじったもの。同作でサックスを演奏していたリーブマンによる、マイルストリビュート作品である。この作品もアランの店Jazzloft.comで存在を知って、購入したもの。ジャケット写真からのリンク先も彼の店になっているので、今日のある人は買ってあげてください。
メンバーとしてギターのマイク=スターン、そしてベースにアンソニー=ジャクソンが入っている。マイクもデイブとは時期が異なるが、マイルスグループのメンバーであった。彼の名を一躍有名にしたのはそのことが大きい。他にはトニー=マリノという人が時折スティックベースで参加する。
この作品で特に素晴らしいのは、なんと言ってもアンソニーのベースワークである。まあ彼のベースはどの参加アルバムを聴いてもハズレは少ないのだろうが、この作品ではロックビートのベースドラムにガッツリと合わせた「本当のベース」とでも言える演奏が存分に堪能できる。しかも、彼のトレードマークとなったフォデラの6弦ベースから繰り出されるねちっこい低音は、スピーカで聴いてみて「ああ、やっぱりこういうのがベースだよなあ」と心から感じさせてくれる演奏だ。その意味ではヘッドフォンやラジカセでの視聴はお勧めできない。
アンソニーはフュージョン全盛の1970年代後半から1980年代にかけては、かなりハイテクな演奏も披露していたが、最近は低音の魅力でのいかにもベースらしい演奏と、それでいて誰にも真似のできない個性を兼ね備えた演奏を同時に聴かせてくれる。今回のセッションは音楽の性格上、ライブセッションの荒々しさに溢れた内容であるが、アンソニーのベースは荒れ狂うソロイストたちをしっかり支える音楽の土台を見事にこなしている。
演奏曲目には緩急に富んだ様々なスタイルの音楽が繰り広げられるが、まるでライブハウスのステージを見るようなワンタイムセッションの生々しさが素晴らしい。アルバム全体を通して非常に楽しめる内容だ。最近眠ってしまっている自分のお気に入りのオーディオシステムをお持ちの方は、是非ともこの作品を楽しんでみることをお進めする。もちろん音は「大きめ」で、誰にも気兼ねしないでいい状況を作って臨んでいただきたい。21世紀においても、エレクトリックマイルスの真髄を彷彿とさせる名作である。
6/04/2007
マイケル=ブレッカー「ピルグリマージュ」
気がつけばもう6月である。
親父の所為にする気はないのだけど、4月以降ばたばたとして仕事にいまひとつ身を入れていなかったツケが一気に出てしまった。5月末発行予定のレポート作成が難航し、結局この土日も家で作業を続け、それでも作ることができなかった何点かのアイデアを泣く泣くあきらめ、極めて不本意な内容ではあったがようやく今日になって発行することになった。
こういう作業は徹夜してどうなるというものではないので、家でも思う様に作業がはかどらないときは、しばらくパソコンを離れて妻に構ってもらったり(動物である)、夜が更けると酒を飲んでしまったりしながら、いわばダラダラと作業が続いた。それでも約束は約束である。仕事の力が衰えたかなあ。
親父の方は、薬のおかげで痛みに苦しむことはあまりないそうだが、それと引き換えに(何にでも便利なものにはウラでツケがたまるものだ)意識や挙動の方が少し的を得ない。そこへ持ってきて最近になって急にあることが気になり始めたらしく、家に帰るといって騒ぎ出し病院の人の手を焼いているようだ。もう歩くことはできないのだが、それでもベッドを降りて部屋から這い出し、小銭入れを握りしめてエレベータで下に降りようとするのだそうだ。連れ戻そうとする看護士には手を挙げるという始末である。
病院のことはあまり詳しくわからないのだが、この病院はこうしたことがあるたびに、家族や身内に助けを求めてくる。もちろん僕も知らぬ振りをしたいわけではないのだが、何かと言っては近くに住む叔母に親父のところに来て欲しいだの、付き添って病室に泊まって欲しいだのと言ってくる。医師の見識と技量も重要だが、看護の方針や体勢というのはまた別の意味で重要なポイントだ。
そんなわけであまり落ち着いて音楽も聴いていないのだが、先に亡くなったマイケル=ブレッカーが最後に遺した作品が気に入っている。タイトルの意味は「巡礼の旅」という意味。アルバムに収録されている最後の作品のタイトルにもなっているのだが、このタイトルがマイケル自身がつけたものなのかは疑わしい。
作品の内容は、いたってストレートなマイケルワールドでいっぱいある。一時は、楽器が吹けないほど衰弱したこともあったそうだが、この演奏が録音された2006年8月のブレッカーはすこぶる調子が良い。特に何を気負うわけでも予感するわけでもなく、いままで通り自分の音楽を吹きまくっている。確かにブローのピークが一時期に比べて弱い様に思えなくもないのだが、音楽は快調そのものである。
メンバーはピアノにハンコックとメルドゥを含む超豪華メンバー。僕にとってうれしいのはドラムを全編ジャック=ディジョネットが叩いていることだ。キースのトリオでの繊細な演奏とはまた違い、ジャック独自のグルーヴが存分に楽しめる。その意味での一押しは4曲目の"Tumbleweed"だろう。こんなご機嫌なジャック節を聴くのは久しぶりかもしれない。
国内盤のタイトルは「聖地への巡礼」とそのまんまであるが、あまり遺作だ何だと騒いだりせずに味わいたい作品である。マイケルはただひたすら生きようとしている。僕の父のいまの様子もそれと変わらない様に思う。死に至る病を宣告された者がより自分らしく生きようとしている。ただそれだけのことだ。
親父の所為にする気はないのだけど、4月以降ばたばたとして仕事にいまひとつ身を入れていなかったツケが一気に出てしまった。5月末発行予定のレポート作成が難航し、結局この土日も家で作業を続け、それでも作ることができなかった何点かのアイデアを泣く泣くあきらめ、極めて不本意な内容ではあったがようやく今日になって発行することになった。
こういう作業は徹夜してどうなるというものではないので、家でも思う様に作業がはかどらないときは、しばらくパソコンを離れて妻に構ってもらったり(動物である)、夜が更けると酒を飲んでしまったりしながら、いわばダラダラと作業が続いた。それでも約束は約束である。仕事の力が衰えたかなあ。
親父の方は、薬のおかげで痛みに苦しむことはあまりないそうだが、それと引き換えに(何にでも便利なものにはウラでツケがたまるものだ)意識や挙動の方が少し的を得ない。そこへ持ってきて最近になって急にあることが気になり始めたらしく、家に帰るといって騒ぎ出し病院の人の手を焼いているようだ。もう歩くことはできないのだが、それでもベッドを降りて部屋から這い出し、小銭入れを握りしめてエレベータで下に降りようとするのだそうだ。連れ戻そうとする看護士には手を挙げるという始末である。
病院のことはあまり詳しくわからないのだが、この病院はこうしたことがあるたびに、家族や身内に助けを求めてくる。もちろん僕も知らぬ振りをしたいわけではないのだが、何かと言っては近くに住む叔母に親父のところに来て欲しいだの、付き添って病室に泊まって欲しいだのと言ってくる。医師の見識と技量も重要だが、看護の方針や体勢というのはまた別の意味で重要なポイントだ。
そんなわけであまり落ち着いて音楽も聴いていないのだが、先に亡くなったマイケル=ブレッカーが最後に遺した作品が気に入っている。タイトルの意味は「巡礼の旅」という意味。アルバムに収録されている最後の作品のタイトルにもなっているのだが、このタイトルがマイケル自身がつけたものなのかは疑わしい。
作品の内容は、いたってストレートなマイケルワールドでいっぱいある。一時は、楽器が吹けないほど衰弱したこともあったそうだが、この演奏が録音された2006年8月のブレッカーはすこぶる調子が良い。特に何を気負うわけでも予感するわけでもなく、いままで通り自分の音楽を吹きまくっている。確かにブローのピークが一時期に比べて弱い様に思えなくもないのだが、音楽は快調そのものである。
メンバーはピアノにハンコックとメルドゥを含む超豪華メンバー。僕にとってうれしいのはドラムを全編ジャック=ディジョネットが叩いていることだ。キースのトリオでの繊細な演奏とはまた違い、ジャック独自のグルーヴが存分に楽しめる。その意味での一押しは4曲目の"Tumbleweed"だろう。こんなご機嫌なジャック節を聴くのは久しぶりかもしれない。
国内盤のタイトルは「聖地への巡礼」とそのまんまであるが、あまり遺作だ何だと騒いだりせずに味わいたい作品である。マイケルはただひたすら生きようとしている。僕の父のいまの様子もそれと変わらない様に思う。死に至る病を宣告された者がより自分らしく生きようとしている。ただそれだけのことだ。
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