めっきり寒くなった。朝の気温が10度を下回る毎日。今年はなぜか洋服関係に出費が続く。しばらくあんまり大した買物をしてなかったからの様にも思えるし、ある種、自分なりのファッションの方針の様なものが明確になったのかもしれない。購入の大半はネット通販である。これには理由があるのだが、ここでは書かない。
そんななか、秋分の日の祭日に川崎のショッピングセンターに出かけた。お目当ては「ブーツ」である。僕は以前からくるぶしが隠れる程度のショートブーツを愛用している。真夏を除けば、ほとんどオールシーズン履いている。履かない時はスニーカー。いわゆるビジネスシューズは、ビジネススーツとともにほとんど使わない。
僕にとってショートブーツの始まりは、中学生の時に流行したコンバースのハイカットだったと思う。もちろん厳密にはブーツではないが、ああいう形の靴にこだわり出したのは、その出会いがあったからだ。大学生になると、周囲の多くは、同じコンバースでもより洗練されたローカットに移り、デッキシューズだローファー、プレーントゥだウィングチップだと高級になっていった。
僕も一部そちらに興味を持ったのは事実だが、あくまでも主流はコンバースのままだった。なんだかんだ言ってくるぶしまで足をすっぽり包んでくれる履き心地は捨て難かったし、CDやレコードを買うお金も欲しかった。学生時代にはたぶん5、6足履き潰したと思う。それでも友達が自慢していたリーガルの高い革靴一足分の値段に満たない。リーガルなんて、いま考えれば全く大した靴ではないのだが。
いまは革のショートブーツを5足持っている。ブーツと言えば圧倒的に女性のアイテムという感が強い。最近は特に街を歩くブーツ姿の女性をよく見かけるようになった。あれはあれで非常にある種の魅力を感じるのだが(一部女性からは「変態!」呼ばわりされるかもしれないが、いちいち気にはしない)、やはり男のファッションにはなかなか取入れられないセンスである。
それに影響を受けたのかはわからないが、今年は少し長めのブーツを買ってみようかと、少しネットやお店で捜してみたりした。やはりあるのはいわゆるエンジニアブーツが中心で、あとはやや奇抜さを狙ったデザインブーツだけだ。前者は僕からすればいわゆる長靴だ。実用性を評価して買うことはあるかもしれないが、ファッションとしてはあまり好みではない。後者は、もうセンスの問題だろうが、どうも僕の求めるものとはかなり異なる世界から生まれているようなものしか見かけない。もっとシンプルなものはないのだろうか。
そうして、昨日立ち寄ったショッピングセンターで、ようやくそれに巡りあったのである。普通のショートブーツよりはもう少し丈が長く、足にはぴったりフィットする。デザインもシンプルだ。茶色と黒があります、と言われて両方欲しいと思ったが、我慢して茶色を買った。一足1万4千円也。まあいい買物である。
今日一日それを履いて、丸の内から神田、秋葉原と歩いてみたが、とても満足の行く履き心地であった。丸の内にある「インデアンカレー丸の内店」に行ってみた。休日なので思った程混んではいなかった。カレーの味は大阪で二百回以上は食べた味と変わりなく満足だったが、サービスがいま一つだった。
気になったのは次の3点。ピクルスの盛りが少ない(大阪梅田三番街店の半分程度)、大して混んでもいないのにカレーが出てくるのに時間がかかりすぎる(確実に2分は待った)、さらにルーを仕切る副店長の声がでかくてうるさい(客に向かって話すのと店員に指示する声が同じ音量である)。改善を期待したい。
さて、前回書いた新しいイヤフォンのおかげで、前よりも音楽をよりよく楽しめるようになったのは喜ばしい。お気に入りの作品でも、いままでiPodで聴くのはためらわれたものが、わりと抵抗なく楽しめる。一概にジャンルだけの問題ではないが、クラシックや現代音楽系のものは特にそうだと思う。
今回ご紹介する作品もその一つ。現代の弦楽四重奏団を代表するユニット、クロノス・クァルテットが1994年に発表した作品集である。これを買った当時は、心から気に入って本当に良く聴いたものだが、このところの僕の音楽試聴スタイルにはまったく合わずに、すっかりご無沙汰になっていた。
クロノスは現代音楽を中心にしたレパートリーで知られる。彼等はこれまでに実に多くのアルバムを発表している。僕はそのうち10枚程度を持っているのだが、その中で一番好きなのがこの作品である。
このアルバムには7つの作品が収録されており、冒頭のモンゴル・トゥバ地方の民謡をアレンジした作品を除いては、すべて20世紀に作曲されたもの。作曲者は一般には全く知られていない人ばかりだろう。僕も、4曲目のロシアの女性作曲家グバイトゥリーナと、ラストのアルバムタイトル曲を書いたグルジアのカンチェリの2人しか知らない。ウズベキスタンの作曲家ヤノフスキ—による作品を除くすべての作品は、クロノスのために書かれたもの。作品に共通するのはタイトルにある「夜の祈り」である。それは同時に密かな祈り、平和への祈りでもある。
サンフランシスコを活動拠点にするクロノスには、アメリカ系作曲家のレパートリーが多い中、ユーラシア大陸のマイノリティ達の祈りを中心に構成された本作は、やや異色の存在ではあるが、おそらく彼等の全アルバムの中でもかなり高い完成度を持つものだと僕は思う。
聴きどころは、ソプラノ歌手のドーン=アップショウをフィーチャーした2曲目「ラクリモーサ」、そしてゴムボールを弦の上に落とした音をテープに録り、それを効果的に使った4曲目グバイトゥリーナの「弦楽四重奏曲第4番」。そしてカンチェリによるクリスマスのない生活をテーマにした組曲の終曲「ナイトプレヤーズ」。
不遇の国政、そして不遇の現代音楽という時代を生きるそれぞれの作曲家達が産み出した音楽は、驚くばかりの名曲揃いである。20世紀の社会がもたらした戦争と民族問題、そして20世紀の音楽が楽譜から離れて追求した音楽表現手法、それらが見事に融合した素晴らしい作品集になっている。そしてこのアルバムは、現代人が踏み出すことのできない一歩を促しているように思える。
クロノスの新作が最近発表されたらしい。しばらくご無沙汰していたので、これを機にまた耳を傾けてみたいと思う。
Kronos Quartet クロノス・クァルテット公式サイト
(おまけ)ひとりおでん
妻が親孝行で実家に帰った週末。自宅で熱燗をやるのに何か温かいものをということで、「ひとりおでん」をやってみました。スーパーで買った500円のおでんセット(2人前練り物中心)を前夜に煮込み、そのまま鍋にふたをして24時間。電気鍋で温めなおして、お酒をお燗しました。なかなかおいしく出来上がりました。
11/25/2006
11/18/2006
サン・エレクトリック「30.7.94」
iPodで使うヘッドホンを買い替えた。最近多くなってきた、カナル型と呼ばれる耳の穴に差し込んで使うタイプのものにした。いままで使っていたオープン型は、気楽に使える反面、音漏れを起こしやすいし、逆に外の音も意外によく聴こえてしまうから、僕のように電車通勤で音楽を聴く者にとっては、少し不自由なところがあった。
特に外の音がうるさい環境が続くので、どうしても聴ける音楽が限られてくるのは、以前から不満ではあった。クラシックの様な音の大きい部分と小さい部分の差が激しいものはもちろん、ジャズでもバラードやベースソロになると、状況次第ではほとんど何も聴こえなくなってしまう。音量を上げればいいのかもしれないが、今度は音が大きい部分で外に漏れてしまうので、それはそれでマナー違反である。フラストレーションがたまる。
前回のキースの作品がとても気に入ったので、これまでの作品も含め彼のソロピアノをしばらく聴きたいと思い、意を決してカナル型を買うことにした。これまでそれを買わなかった理由はいくつかあった。一番の心配は、耳に差すといっても、従来のイヤホン同様、簡単に外れてしまうのが鬱陶しく思われたからだ。
お店に行っていくつかの商品を試してみたが、実際に通勤途中での装着感がどうなるのかまでは、やはりわからなかった。しかし、意外に耳にフィットするものだということはよくわかった。音は、機種による違いはともかく、低音がしっかり聴きとれるのはやはり心地よいものだと感じた。
結局、アマゾンでゼンハイザー社のカナル型イヤホンCX300を4500円くらいで買った。このメーカーにしたのは、自宅で使っているヘッドフォンと同じメーカーだから。実際に店で試聴することはできなかったけど、音に対する同社のブランドを信頼することにした。値段も手頃だったし、ユーザーレビューでも特に悪いことは書かれていなかった。
実際に使ってみて1週間が経過したが、いまのところ概ね気に入って使っている。低音は非常にはっきりしかも強く聴こえるのが嬉しい。もちろん慣れれば不自然さはない。また、外からの音が音楽を聴くのにちょうどいい程度にカットされるので、音の小さい部分でも比較的騒音に悩まされずに楽しめるのはよい。
一方で、耳に装着するには少し慣れが必要。耳栓だと思ってつけるといい感じだ。また、外を歩いたりする際にはそれなりに周囲の状況に気を配る必要があるし、身体や頭が動くことで少しずつイヤホンが外れたりするのはやむを得ない。耳への差し具合で音質がかなり変わるので、そういうときはその都度耳に差し入れる必要がある。周囲の音も完全に遮断されるわけではないが、車内アナウンスなどは聞き取りにくくなるし、駅の自動改札で定期券をかざすと聴こえていた「ピッ」という音は聴こえなくなった。
あと、イヤホンのコードが衣服などに刷れたりすると、その振動が音となって伝わって来る。同様に、底の硬い靴などで歩いたりすると、その振動が骨を伝わって頭まで響いてくる。つまり外歩きに使用するのは、安全性も考えればあまりお薦めできるものではないということだろう。まあ、ともあれ結果には満足している。
おかげでiPodの中身を大きく入れ替えることになった。これまで少し敬遠していたクラシックや現代音楽、あるいはベースのソロやピアノデュオなど、僕が大好きな編成の小さな音楽をたくさん入れてみた。もちろんキースの音楽もたくさん入れた。通勤が少し充実するように感じられた。
カナル型にして自分が聴いている音楽と向き合う際の距離の様なものは、少し近くなったと思う。一方、いままで邪魔だと感じることもあった「周囲の音」に対する態度も、少し変化があったように思う。いままでは意図的に避けていたようなところがあったが、今度は逆にこちらから無意識にそれを求めて耳を凝らすことも度々である。
アンビエントミュージックという言葉がある。ambientとは英語で「周囲の」という意味。環境音楽といわれるものと同義の様な少し異なる様な意味でもあるようだ。まあ大雑把には、「周囲の音」である日常的な環境音と同じ様な感覚で接することができる音楽、という意味で間違いはないだろう。今回は少し個人的な懐かしさも込めて、そういう種類の音楽を取り上げてみた。
1990年代の半ば頃、世界的なテクノミュージックのブームがあった。その頃の想い出は、以前このろぐでオウテカを取り上げた時に少し書いた。当時の代表的な作品のいくつかについては、僕自身いまも大切に手元において時折それを聴いている。僕が特に好きだったのは、アンビエントテクノと呼ばれた作品だった。これはダンスを目的としたビートよりも、シンセサイザーのロングトーンなどを中心に、ゆっくりとした時間の延びを促す様な作風の音楽である。
ドイツのテクノユニット、サン・エレクトリックによる「30.7.94」も、僕にとってはそうしたアンビエントテクノの大傑作だと思っている。デンマークの首都コペンハーゲンにあるクラブでのライヴを収録したこの作品では、3つのパートから成るおよそ1時間にわたる「音の夢」を体験することができる。
第1部"castor & pollux"、冒頭のやさしい光に誘われて聴くものはすぐに優しい光に包まれた心地よい世界にひき込まれる。後半では意表をつくように、ビートルズのある作品が遠くに去った俗界を思い出すかのように、効果的に使われる。
続く第2部"an atom of all suns"では、光は徐々に暗くなり、静かな迷宮に深く深くダイヴする。夢の一番深い部分である。ひたすら無欲に身を委ねる音空間が続いてゆく。
そして第3部"northern lights #5"。深くて暗い音空間に少し光が射して来たかと思うと、ゆったりしたしかし着実なベースに乗って、足下が少しずつ上昇を始める。上昇は少しずつ加速し、気がつくと解放的な気流にのって自分が空を飛んでいるかの様な世界に移っている。そしてゆっくりと地上に戻り、やがて音の夢空間から醒めてゆく。
重要なのは、この作品がライヴ演奏であるということ。テクノの生演奏というのは、少し馴染みにくい概念かもしれないが、ここに現れる音の一つ一つは、すべてその場で演奏者によって選ばれ、ミックスされて、空間に放たれている(つまり演奏されている)ものなのである。
この素晴らしい作品を、是非皆さんにも聴いていただきたいと思って採り上げたのだが、なんと驚いたことに現在は廃盤になっているようだ。なんとも残念である。運良く店頭などで見つけられた方は、迷わず購入することをお薦めする。
少し大きな音で鳴らしながら、お気に入りのソファー、ベッド、布団の上にごろんと横になってお楽しみください。「音の夢」によるトリップに心身を委ねれば、日頃のすべてを忘れさせてくれるはずだ。
特に外の音がうるさい環境が続くので、どうしても聴ける音楽が限られてくるのは、以前から不満ではあった。クラシックの様な音の大きい部分と小さい部分の差が激しいものはもちろん、ジャズでもバラードやベースソロになると、状況次第ではほとんど何も聴こえなくなってしまう。音量を上げればいいのかもしれないが、今度は音が大きい部分で外に漏れてしまうので、それはそれでマナー違反である。フラストレーションがたまる。
前回のキースの作品がとても気に入ったので、これまでの作品も含め彼のソロピアノをしばらく聴きたいと思い、意を決してカナル型を買うことにした。これまでそれを買わなかった理由はいくつかあった。一番の心配は、耳に差すといっても、従来のイヤホン同様、簡単に外れてしまうのが鬱陶しく思われたからだ。
お店に行っていくつかの商品を試してみたが、実際に通勤途中での装着感がどうなるのかまでは、やはりわからなかった。しかし、意外に耳にフィットするものだということはよくわかった。音は、機種による違いはともかく、低音がしっかり聴きとれるのはやはり心地よいものだと感じた。
結局、アマゾンでゼンハイザー社のカナル型イヤホンCX300を4500円くらいで買った。このメーカーにしたのは、自宅で使っているヘッドフォンと同じメーカーだから。実際に店で試聴することはできなかったけど、音に対する同社のブランドを信頼することにした。値段も手頃だったし、ユーザーレビューでも特に悪いことは書かれていなかった。
実際に使ってみて1週間が経過したが、いまのところ概ね気に入って使っている。低音は非常にはっきりしかも強く聴こえるのが嬉しい。もちろん慣れれば不自然さはない。また、外からの音が音楽を聴くのにちょうどいい程度にカットされるので、音の小さい部分でも比較的騒音に悩まされずに楽しめるのはよい。
一方で、耳に装着するには少し慣れが必要。耳栓だと思ってつけるといい感じだ。また、外を歩いたりする際にはそれなりに周囲の状況に気を配る必要があるし、身体や頭が動くことで少しずつイヤホンが外れたりするのはやむを得ない。耳への差し具合で音質がかなり変わるので、そういうときはその都度耳に差し入れる必要がある。周囲の音も完全に遮断されるわけではないが、車内アナウンスなどは聞き取りにくくなるし、駅の自動改札で定期券をかざすと聴こえていた「ピッ」という音は聴こえなくなった。
あと、イヤホンのコードが衣服などに刷れたりすると、その振動が音となって伝わって来る。同様に、底の硬い靴などで歩いたりすると、その振動が骨を伝わって頭まで響いてくる。つまり外歩きに使用するのは、安全性も考えればあまりお薦めできるものではないということだろう。まあ、ともあれ結果には満足している。
おかげでiPodの中身を大きく入れ替えることになった。これまで少し敬遠していたクラシックや現代音楽、あるいはベースのソロやピアノデュオなど、僕が大好きな編成の小さな音楽をたくさん入れてみた。もちろんキースの音楽もたくさん入れた。通勤が少し充実するように感じられた。
カナル型にして自分が聴いている音楽と向き合う際の距離の様なものは、少し近くなったと思う。一方、いままで邪魔だと感じることもあった「周囲の音」に対する態度も、少し変化があったように思う。いままでは意図的に避けていたようなところがあったが、今度は逆にこちらから無意識にそれを求めて耳を凝らすことも度々である。
アンビエントミュージックという言葉がある。ambientとは英語で「周囲の」という意味。環境音楽といわれるものと同義の様な少し異なる様な意味でもあるようだ。まあ大雑把には、「周囲の音」である日常的な環境音と同じ様な感覚で接することができる音楽、という意味で間違いはないだろう。今回は少し個人的な懐かしさも込めて、そういう種類の音楽を取り上げてみた。
1990年代の半ば頃、世界的なテクノミュージックのブームがあった。その頃の想い出は、以前このろぐでオウテカを取り上げた時に少し書いた。当時の代表的な作品のいくつかについては、僕自身いまも大切に手元において時折それを聴いている。僕が特に好きだったのは、アンビエントテクノと呼ばれた作品だった。これはダンスを目的としたビートよりも、シンセサイザーのロングトーンなどを中心に、ゆっくりとした時間の延びを促す様な作風の音楽である。
ドイツのテクノユニット、サン・エレクトリックによる「30.7.94」も、僕にとってはそうしたアンビエントテクノの大傑作だと思っている。デンマークの首都コペンハーゲンにあるクラブでのライヴを収録したこの作品では、3つのパートから成るおよそ1時間にわたる「音の夢」を体験することができる。
第1部"castor & pollux"、冒頭のやさしい光に誘われて聴くものはすぐに優しい光に包まれた心地よい世界にひき込まれる。後半では意表をつくように、ビートルズのある作品が遠くに去った俗界を思い出すかのように、効果的に使われる。
続く第2部"an atom of all suns"では、光は徐々に暗くなり、静かな迷宮に深く深くダイヴする。夢の一番深い部分である。ひたすら無欲に身を委ねる音空間が続いてゆく。
そして第3部"northern lights #5"。深くて暗い音空間に少し光が射して来たかと思うと、ゆったりしたしかし着実なベースに乗って、足下が少しずつ上昇を始める。上昇は少しずつ加速し、気がつくと解放的な気流にのって自分が空を飛んでいるかの様な世界に移っている。そしてゆっくりと地上に戻り、やがて音の夢空間から醒めてゆく。
重要なのは、この作品がライヴ演奏であるということ。テクノの生演奏というのは、少し馴染みにくい概念かもしれないが、ここに現れる音の一つ一つは、すべてその場で演奏者によって選ばれ、ミックスされて、空間に放たれている(つまり演奏されている)ものなのである。
この素晴らしい作品を、是非皆さんにも聴いていただきたいと思って採り上げたのだが、なんと驚いたことに現在は廃盤になっているようだ。なんとも残念である。運良く店頭などで見つけられた方は、迷わず購入することをお薦めする。
少し大きな音で鳴らしながら、お気に入りのソファー、ベッド、布団の上にごろんと横になってお楽しみください。「音の夢」によるトリップに心身を委ねれば、日頃のすべてを忘れさせてくれるはずだ。
11/12/2006
キース=ジャレット「カーネギー ホール コンサート」
僕が知っている人、知らない人、いろいろな人の命が消えていった一週間だったように思う。自ら命を絶つ人に対して、僕はあまりかける言葉を持つことができない。それについてはもう一つのブログに少し書いた。わずかな同情はあるものの、僕は彼等が大きな罪を犯したことを簡単に許す気にはなれない。
それから、病でやむなく終わらざるを得なくなった命で、僕が個人的に印象深いものが2つあった。漫画家のはらたいら氏。クイズ番組の「宇宙人」としても、そして彼の作品に描かれる不思議な存在感に満ちた人物も、僕は大好きだった。
そして、僕が勤める会社のある幹部。体調を理由に突然の交代を発表してからまだ10ヶ月も経っていなかった。術後に一度だけ見かけたが、交代直前にある件をご説明にうかがった時とは、およそ比較のしようがない程やつれていた。それでも経過はまずまずと勝手に思っていただけに、週末もたらされた突然の訃報に接したときは驚いた。
一方で、新しい命のことは一層新鮮に感じられる。週末に会社の後輩が、新しい家を買ったというのでお邪魔した。そこの4歳になる男の子と、近所に住むもう1人の同僚が連れてきた1歳と少しの女の子が一緒だった。こういう場合は、子供中心に時間を過ごすことになるのはやむを得ないが、それはそれで楽しいものだ。
最近のように、個人が豊かに自分の時間を楽しむ生き方が、大人の世界でも当たり前と考える世の中になってくると、結婚や出産の割合が低くなる傾向がはっきりしてきている。いわゆる少子化の原因について議論するのは、意味のないことだとは思わないが、人間が自分独りの生き方を、どこかで求めている部分があることはいまの時代の一側面だろう。
僕は結婚してまだ6年半余りで、いまのところ子供はいない。いま感じているのは、結婚して自分の生き方が制限されたり束縛されたりすることについて、それは確かにあるものの、さほど不自由や不満を感じることはないなということ。既に自立した2人の人間(幸いにして一応共に健康である)が、一緒にやっていくのは、そのことを十分納得してお互いに尊重し合って楽しむ(ここが重要なのだが)分には、失うものより得るものの方がはるかに大きいと思う。
それよりも、やはり新しい命を産んで育む労力は、未経験のこととしてはとても大変なことのように思える。時間の使い方を始め、基本的なところで生活のスタイルに大きな変化ができるだろうということは、周囲の人の様子を見ていてそう思う。それでもいくら社会が充実して自分の時間が楽しくなろうとも、やはり人間はそこに向かうのが自然な流れである。それに気付くのにいろいろな理由で時間がかかる時代になっているのは事実かもしれない。
命のことをいつになく強く感じた一週間の最中、キース=ジャレットの新作が届いた。今回は彼としては初めての米国でのソロコンサートを、そのまま収録した内容になっている。長いものでも10分に満たない短めの即興演奏が10曲、それに5曲の既存作品(オリジナル曲とスタンダードの"Time on my hands")からなるアンコール演奏が、会場の雰囲気そのままに収録されている。
アンコールを求め鳴り止まぬ観客の熱狂的な拍手や、ステージに戻ったキースが聴衆に語りかける声などが、そっくりそのまま収録されているのだ。この構成に対する賛否はあるだろうが、制作側の熟慮の結果と素直に受け止めるのが無難だろう。キースの作品に対する評価としてはもはや月並みな表現かもしれないが、作品の内容はもう掛け値なしに素晴らしいものである。
ソロの前作「レイディアンス」にも共通したある意味でシンプルで、非常にすんなりと身体に吸収されるピアノ音楽が、今回の作品ではさらに強く濃くなっている様に感じられる。それだけキースの音楽が成熟に向かって進化を続けている証拠だと思う。聴いてみて、彼が現代世界で最も重要なピアニストであり音楽家であるという想いはさらに深まった。いつもながら極めて完成度の高い「生命に満ちあふれた生の音楽演奏」だ。
命を産み出し育むことは、先天的に備わった能力である。その先天的な能力を元に、長い営みの中からいろいろなものが生まれた。マンガも会社も音楽も。キースの音楽はその中でも、ひと際高い頂点を持つ業績の一つだと思う。
そして命を人為的に奪うことは、それが自分のものである場合も含め、やはり人間には後天的に備わった行為であり、すべての営みを否定するものである。戦争も死刑も自殺も、必然性や是非についての議論に意味はあるが、やはりそれがあってはならないということが大前提であることに違いはない。
それから、病でやむなく終わらざるを得なくなった命で、僕が個人的に印象深いものが2つあった。漫画家のはらたいら氏。クイズ番組の「宇宙人」としても、そして彼の作品に描かれる不思議な存在感に満ちた人物も、僕は大好きだった。
そして、僕が勤める会社のある幹部。体調を理由に突然の交代を発表してからまだ10ヶ月も経っていなかった。術後に一度だけ見かけたが、交代直前にある件をご説明にうかがった時とは、およそ比較のしようがない程やつれていた。それでも経過はまずまずと勝手に思っていただけに、週末もたらされた突然の訃報に接したときは驚いた。
一方で、新しい命のことは一層新鮮に感じられる。週末に会社の後輩が、新しい家を買ったというのでお邪魔した。そこの4歳になる男の子と、近所に住むもう1人の同僚が連れてきた1歳と少しの女の子が一緒だった。こういう場合は、子供中心に時間を過ごすことになるのはやむを得ないが、それはそれで楽しいものだ。
最近のように、個人が豊かに自分の時間を楽しむ生き方が、大人の世界でも当たり前と考える世の中になってくると、結婚や出産の割合が低くなる傾向がはっきりしてきている。いわゆる少子化の原因について議論するのは、意味のないことだとは思わないが、人間が自分独りの生き方を、どこかで求めている部分があることはいまの時代の一側面だろう。
僕は結婚してまだ6年半余りで、いまのところ子供はいない。いま感じているのは、結婚して自分の生き方が制限されたり束縛されたりすることについて、それは確かにあるものの、さほど不自由や不満を感じることはないなということ。既に自立した2人の人間(幸いにして一応共に健康である)が、一緒にやっていくのは、そのことを十分納得してお互いに尊重し合って楽しむ(ここが重要なのだが)分には、失うものより得るものの方がはるかに大きいと思う。
それよりも、やはり新しい命を産んで育む労力は、未経験のこととしてはとても大変なことのように思える。時間の使い方を始め、基本的なところで生活のスタイルに大きな変化ができるだろうということは、周囲の人の様子を見ていてそう思う。それでもいくら社会が充実して自分の時間が楽しくなろうとも、やはり人間はそこに向かうのが自然な流れである。それに気付くのにいろいろな理由で時間がかかる時代になっているのは事実かもしれない。
命のことをいつになく強く感じた一週間の最中、キース=ジャレットの新作が届いた。今回は彼としては初めての米国でのソロコンサートを、そのまま収録した内容になっている。長いものでも10分に満たない短めの即興演奏が10曲、それに5曲の既存作品(オリジナル曲とスタンダードの"Time on my hands")からなるアンコール演奏が、会場の雰囲気そのままに収録されている。
アンコールを求め鳴り止まぬ観客の熱狂的な拍手や、ステージに戻ったキースが聴衆に語りかける声などが、そっくりそのまま収録されているのだ。この構成に対する賛否はあるだろうが、制作側の熟慮の結果と素直に受け止めるのが無難だろう。キースの作品に対する評価としてはもはや月並みな表現かもしれないが、作品の内容はもう掛け値なしに素晴らしいものである。
ソロの前作「レイディアンス」にも共通したある意味でシンプルで、非常にすんなりと身体に吸収されるピアノ音楽が、今回の作品ではさらに強く濃くなっている様に感じられる。それだけキースの音楽が成熟に向かって進化を続けている証拠だと思う。聴いてみて、彼が現代世界で最も重要なピアニストであり音楽家であるという想いはさらに深まった。いつもながら極めて完成度の高い「生命に満ちあふれた生の音楽演奏」だ。
命を産み出し育むことは、先天的に備わった能力である。その先天的な能力を元に、長い営みの中からいろいろなものが生まれた。マンガも会社も音楽も。キースの音楽はその中でも、ひと際高い頂点を持つ業績の一つだと思う。
そして命を人為的に奪うことは、それが自分のものである場合も含め、やはり人間には後天的に備わった行為であり、すべての営みを否定するものである。戦争も死刑も自殺も、必然性や是非についての議論に意味はあるが、やはりそれがあってはならないということが大前提であることに違いはない。
11/04/2006
高柳昌行&ニューディレクション「エクリプス」
少しずつ気温が下がっている。木々の葉っぱも枯れ始めてきている。ビールや缶酎ハイの様な、冷たいお酒をあおって得られる喜びも、少し落ち着いたものになってきたようだ。代わってやってくるのが熱燗の季節である。
先週水曜日、このろぐにもたびたび登場する幼なじみの男と、彼の会社の同僚と僕の3人で、新宿三丁目の居酒屋「鼎(かなえ)」で一杯やることになった。彼らとはしばらくぶりだった。ちょうど僕が、初台の某企業でちょっとしたプレゼンをやることになったので、新宿までいくならその帰りにやっていこうと提案したら、彼らがお店を用意してくれた。
今年の2月頃だったか、同じメンバーで彼らのオフィス近くの御用達の居酒屋で一杯やったのだが、熱燗ではなくぬる燗しか出さないお店の主義に、立腹して帰ったのを憶えてくれていたらしく、「ちゃんと熱燗の飲めるお店にしといたよ」とは、口にも文字にも出さなかったものの、お店のホームページを見た僕にはすぐに伝わってきた。
このメンバーは同じ歳で、酒好き、音楽好きと来ている。僕ら2人は小学校以来の長い付き合いだし、また彼ら2人は共に翻訳会社を支えるパートナーである。10年くらい前には、他のメンバーもいたが一緒にバンドをやったこともある。考えてみれば結構長い付き合いである。
僕は仕事の都合で7時過ぎに合流。彼らは先に始めていたのだが、既にビールのジョッキはなく、熱燗のお猪口2つと鯵のナメロウの皿が挟んで、なにやら仕事の話を論じていた。僕は少しおなかが空いていたのでとりあえずビールにしたものの、さっさとそれを飲み干すとすぐさま熱燗に合流した。
このお店はしっかりとした熱燗が、お店の推薦で4種類の酒から選べる。冷酒の種類も多くお店のメニューに「正一合」とあるように、きっちり一合を出すのがポリシーになっているのだが、熱燗はすべて一合六勺の徳利で出してくれる。肴はどれも気の利いたものばかりで美味い。ちょこちょこ注文したが、3人とも飲ん兵衛なので、もはやしっかり食べる者などいない。
僕らは一番安い「一の蔵」の熱燗をそれはもう次々に飲んだ。僕が合流してからは、徳利1本では追いつかないので、常に2本ずつを4、5回注文したと思う。お店が珍しく空いていて、比較的静かだったのも幸いして、とても心地よい酒宴である。お店のおじさんも「いいよね熱燗は。どんどんやってください」と嬉しそうである。
話は先ず、最近のテレビの話から「のだめカンタービレ」は面白い、で3人が一致して始まった。それからは「ドクターコトー」の蒼井優がカワイいと誰かが言い出すと、「セーラー服と機関銃」は長澤まさみはいいけれど、この歳になるとこっ恥ずかしくて観れないよなあ、と民主的にオヤジ話が進み酒もさらに進む。そしてNHKの朝ドラ「芋たこなんきん」は面白い、でまたまた意見が一致してテレビドラマの部は幕となった。
僕はNHKの朝ドラが実は結構好きで、時間がある時は(大抵土曜日なのだが)チェックしている。「芋たこなんきん」は、主人公のヒロインを、若手女優ではなくベテラン(僕よりも6つ年上)の藤山直美が務めるという、異色のキャスティングで驚き、正直当初はやや期待が低かった(失礼)のだが、始まってみるとその不思議な魅力は、はやくも前作「純情キラリ」を上回り、最近の僕のお気に入り「風のハルカ」に迫る
勢いである。何ともいえない関西のリズム感、朝ドラというのに夜中に酒を飲んで語り明かすシーンが印象的だ。やはり「連ドラはNHK大阪放送局」の法則は今回も健在である。
さて、その後は音楽の話になだれ込み、テッド=ニュージェントとかフランク=マリノは一体いまどこで何をしているのか、とまたしてもオヤジロックの世界に拘泥してしまった。個人的には「カナダのジミヘン」ことフランク=マリノの当時の音源が無性に聴きたくなったが、当然手元にないので代わりに酒を飲むというどうしようもない展開になる。やがて微睡みとともに視界に客観性が感じられるようになってきたので、お開きとなった。3人で1万8千円ほどだったが間違いなく7〜8割は酒代だっただろう。満足。
時計を観てみるとそれほど遅いわけでもなかった。家に帰って、寝る前に何か聴いてみたいと思ったので、反射的に先日タワレコードで、マイクのDVDと一緒に買ったCDを聴いた。それが今回の作品である。高柳を知る人は少ないと思うが、知る人がいれば、なぜその状況でこれを聴くのかと思われるかもしれない。でも音楽とはそういうものだ。聴くのも演るのも本来は個人的なところから始まるものだと思う。
日本人の音楽アーチスト特にジャズに関連した人のなかで、高柳と阿部(薫)は特異な存在だ。だけどこの2人の音楽を愛する人はいまも多いと思う。その証として、今回の作品のように、当時100枚程度しかプレスされなかったプライベート録音に近い音源が、30年を経た現在になって突然CD化されたりするのだろう。高柳の作品はこれ以外にも、ここ1年で非常に多くの作品がCD化されていて、僕もその何枚かを手にしている。
ほぼ同一のスタイルを貫き、短期間で燃焼した阿部とは異なり、高柳は途中病気でのブランクがあるものの、1960〜1991年までの約30年間に渡って独創的な音楽活動を続けた。ニューディレクションは、そのちょうど真ん中にあたり、これは間違いなく一つの頂点である。
「エクリプス(侵蝕)」は、1975年3月に行なわれた彼のグループニューディレクションによるパフォーマンスを収録したもの。場所は東京の若菜会館という記録が残っているらしいが、同日渋谷での演奏記録があることから、おそらくは都内のどこかでのパフォーマンスであることは間違いない。内容は彼らの一時代を代表するかなりハードなフリーインプロヴィゼーションで、圧倒的な集団即興の素晴らしさが満喫できる。
最近、日が経つのが早いのかゆっくりなのかがわからない。何かを期待して早く早くという様な思いがある一方で、1〜2週間ほどの期間に実にいろんなことがあるとも思える。何かに腹を立てたりすることもあるし、くだらないことでもちょっとしたことに夢中になったりもする。楽器演奏のように、本当はとても充実したくても、なかなかそれができないこともあるのだが、それ以外にもやりたいことはいろいろあるようだ。
いまこれを書きながら、久しぶりに高柳の演奏をまとめていくつも聴いているのだが、こういう音楽が聴きたくなるのも、最近の気候や自分の状況が一因しているようにも思う。
takayanagi's data guitar氏による高柳昌行に関する情報サイト
先週水曜日、このろぐにもたびたび登場する幼なじみの男と、彼の会社の同僚と僕の3人で、新宿三丁目の居酒屋「鼎(かなえ)」で一杯やることになった。彼らとはしばらくぶりだった。ちょうど僕が、初台の某企業でちょっとしたプレゼンをやることになったので、新宿までいくならその帰りにやっていこうと提案したら、彼らがお店を用意してくれた。
今年の2月頃だったか、同じメンバーで彼らのオフィス近くの御用達の居酒屋で一杯やったのだが、熱燗ではなくぬる燗しか出さないお店の主義に、立腹して帰ったのを憶えてくれていたらしく、「ちゃんと熱燗の飲めるお店にしといたよ」とは、口にも文字にも出さなかったものの、お店のホームページを見た僕にはすぐに伝わってきた。
このメンバーは同じ歳で、酒好き、音楽好きと来ている。僕ら2人は小学校以来の長い付き合いだし、また彼ら2人は共に翻訳会社を支えるパートナーである。10年くらい前には、他のメンバーもいたが一緒にバンドをやったこともある。考えてみれば結構長い付き合いである。
僕は仕事の都合で7時過ぎに合流。彼らは先に始めていたのだが、既にビールのジョッキはなく、熱燗のお猪口2つと鯵のナメロウの皿が挟んで、なにやら仕事の話を論じていた。僕は少しおなかが空いていたのでとりあえずビールにしたものの、さっさとそれを飲み干すとすぐさま熱燗に合流した。
このお店はしっかりとした熱燗が、お店の推薦で4種類の酒から選べる。冷酒の種類も多くお店のメニューに「正一合」とあるように、きっちり一合を出すのがポリシーになっているのだが、熱燗はすべて一合六勺の徳利で出してくれる。肴はどれも気の利いたものばかりで美味い。ちょこちょこ注文したが、3人とも飲ん兵衛なので、もはやしっかり食べる者などいない。
僕らは一番安い「一の蔵」の熱燗をそれはもう次々に飲んだ。僕が合流してからは、徳利1本では追いつかないので、常に2本ずつを4、5回注文したと思う。お店が珍しく空いていて、比較的静かだったのも幸いして、とても心地よい酒宴である。お店のおじさんも「いいよね熱燗は。どんどんやってください」と嬉しそうである。
話は先ず、最近のテレビの話から「のだめカンタービレ」は面白い、で3人が一致して始まった。それからは「ドクターコトー」の蒼井優がカワイいと誰かが言い出すと、「セーラー服と機関銃」は長澤まさみはいいけれど、この歳になるとこっ恥ずかしくて観れないよなあ、と民主的にオヤジ話が進み酒もさらに進む。そしてNHKの朝ドラ「芋たこなんきん」は面白い、でまたまた意見が一致してテレビドラマの部は幕となった。
僕はNHKの朝ドラが実は結構好きで、時間がある時は(大抵土曜日なのだが)チェックしている。「芋たこなんきん」は、主人公のヒロインを、若手女優ではなくベテラン(僕よりも6つ年上)の藤山直美が務めるという、異色のキャスティングで驚き、正直当初はやや期待が低かった(失礼)のだが、始まってみるとその不思議な魅力は、はやくも前作「純情キラリ」を上回り、最近の僕のお気に入り「風のハルカ」に迫る
勢いである。何ともいえない関西のリズム感、朝ドラというのに夜中に酒を飲んで語り明かすシーンが印象的だ。やはり「連ドラはNHK大阪放送局」の法則は今回も健在である。
さて、その後は音楽の話になだれ込み、テッド=ニュージェントとかフランク=マリノは一体いまどこで何をしているのか、とまたしてもオヤジロックの世界に拘泥してしまった。個人的には「カナダのジミヘン」ことフランク=マリノの当時の音源が無性に聴きたくなったが、当然手元にないので代わりに酒を飲むというどうしようもない展開になる。やがて微睡みとともに視界に客観性が感じられるようになってきたので、お開きとなった。3人で1万8千円ほどだったが間違いなく7〜8割は酒代だっただろう。満足。
時計を観てみるとそれほど遅いわけでもなかった。家に帰って、寝る前に何か聴いてみたいと思ったので、反射的に先日タワレコードで、マイクのDVDと一緒に買ったCDを聴いた。それが今回の作品である。高柳を知る人は少ないと思うが、知る人がいれば、なぜその状況でこれを聴くのかと思われるかもしれない。でも音楽とはそういうものだ。聴くのも演るのも本来は個人的なところから始まるものだと思う。
日本人の音楽アーチスト特にジャズに関連した人のなかで、高柳と阿部(薫)は特異な存在だ。だけどこの2人の音楽を愛する人はいまも多いと思う。その証として、今回の作品のように、当時100枚程度しかプレスされなかったプライベート録音に近い音源が、30年を経た現在になって突然CD化されたりするのだろう。高柳の作品はこれ以外にも、ここ1年で非常に多くの作品がCD化されていて、僕もその何枚かを手にしている。
ほぼ同一のスタイルを貫き、短期間で燃焼した阿部とは異なり、高柳は途中病気でのブランクがあるものの、1960〜1991年までの約30年間に渡って独創的な音楽活動を続けた。ニューディレクションは、そのちょうど真ん中にあたり、これは間違いなく一つの頂点である。
「エクリプス(侵蝕)」は、1975年3月に行なわれた彼のグループニューディレクションによるパフォーマンスを収録したもの。場所は東京の若菜会館という記録が残っているらしいが、同日渋谷での演奏記録があることから、おそらくは都内のどこかでのパフォーマンスであることは間違いない。内容は彼らの一時代を代表するかなりハードなフリーインプロヴィゼーションで、圧倒的な集団即興の素晴らしさが満喫できる。
最近、日が経つのが早いのかゆっくりなのかがわからない。何かを期待して早く早くという様な思いがある一方で、1〜2週間ほどの期間に実にいろんなことがあるとも思える。何かに腹を立てたりすることもあるし、くだらないことでもちょっとしたことに夢中になったりもする。楽器演奏のように、本当はとても充実したくても、なかなかそれができないこともあるのだが、それ以外にもやりたいことはいろいろあるようだ。
いまこれを書きながら、久しぶりに高柳の演奏をまとめていくつも聴いているのだが、こういう音楽が聴きたくなるのも、最近の気候や自分の状況が一因しているようにも思う。
takayanagi's data guitar氏による高柳昌行に関する情報サイト
登録:
投稿 (Atom)