9/30/2006

ビル=フリーゼル/ロン=カーター/ポール=モチアン

 このところ少々自分が変である。世間でいうところの五月病とはこういう気分を言うのだろうか。長年の目標が果たせなかった時の落ち込みの様もであるし、失恋の気分の様でもあるが、やっぱり少し違う。毎日の生活は、世間の平均(そういうものがあればの話だが)に比較して、それはそれはバラエティに富んでいると思う。ちゃんとした仕事もあるし、家庭もある、友達もいる、趣味もある、酒もある。しかし、それでもないものがある。

それは、別の仕事かもしれないし、友達かもしれないし、趣味なのかもしれない。もしかしたら、別の自分なのかもしれないし、別の場所かもしれない。少し思うところはあるのだが、何かが怖くて、その扉を開けないでいる様にも思える。僕は我慢しているのだろうか。それとも我慢が足りないのだろうか。いまはまだわからないし、この先そのことに答えが出るような気は正直あまりしない。

先週の水曜日、以前仕事の一環として参加した、いろいろな会社の人が集まった勉強会のようなものがあって、その時のメンバー数名が集まる飲み会が催され、僕も参加させてもらった。一応、集まりの主旨の様なものがいくつかあって、ある人の門出のお祝いだったり、趣味で偉業を達成した人の健闘を讃えたり、仕事で昇格(といっても課長が部長になったというレベルではない)した人を尊敬したり、異動で遠地に赴く人を景気づけたりと、まあそういうことである。

普段あまり会わない人と飲んで会話するのは楽しいものである。この集まりは、いろいろな人が集まっていて日頃の職場の面々で集まるのとはかなりわけが異なるので、一層楽しい気分になれる。それでも、今回会場と職場が近かったので、うちの妻も同席させてもらったのだが、彼女が日頃いる職場から見ると、「久しぶりにサラリーマンの宴会っていう感じで楽しかった」という感想だから興味深い。単なるオヤジ集団という意味に解釈しておくのが無難かもしれない。

前回に続いて、アマゾンドットコムで購入した3枚のCDから2枚目。タイトルがメンバーの名前そのままという意味では、前回と同じである。これは単なる偶然だろうか。同じレーベルから同じ時期に発売されているので、なにか意図というか、同じノリでつけられた感もあるが、その割にはジャケットデザインなどはまったく共通性はない。もちろん音楽の内容はこのユニットのメンバーから醸し出される独特のものだ。

ビルはこれまでにもいくつかの作品をとりあげてきているが、僕がいまとても気に入っているギタリストだ。彼は、いわゆる早弾きのようなテクニックはあまり出さない(ないはずはないと思うのだが)ところが、おそらく「現代的」な個性として輝くのだろうと思う。贅沢な時代なのか、ゆとりある時代なのか、満ち足りた時代なのか。

ビルが、そういうお馴染みの心地よいプレイを繰り広げてくれるのは、ある意味期待通り。今回の作品で特筆すべきは、リズムセクション特にベースのロン=カーターの素晴らしさにある。ジャズを聴く人なら知らない人はいないだろうし、日本でも昔(といっても、もう20年前になりますか)サントリーウィスキーのCMで、渋いベースワークを披露して評判になった。ストーブのよこでお湯割りを飲んでいた眼鏡のおじさんである。

冒頭、ロンのマイルス時代の名曲"Eighty-One"の素晴らしさが、特にそのことをよく表している。途中で繰り出される、ロックンロールのウォーキングベースはあまりにもカッコ良く、ゆったりした世界なのに度肝を抜かれた。ロンはまじめ一本というイメージが強かったが、この作品で聴かれる彼の姿は、まさに「チョイ悪ジジイ」そのものだ。

考えてみれば、ロンも昔からソロでの早弾きよりは、ベースパターンの中から生み出される独特の空間が魅力の人である。その意味では、ビルと長い付き合いになるドラムのポールとともに、ある意味似た者同士で構成されたトリオということができる。狙いは見事に素晴らしい成果を生んでいると思う。これこそコンテンポラリーなジャズの一つのスタイルであり、カッコ良さの象徴といっていいだろう。この作品も幅広い人に強くお薦めしたい。

先の宴会で、このろぐを読んでくれているある人から、「(えぬろぐは)前ふりが時々面白いんだよなあ。本論の音楽の話になると、はっきり言ってわからんよ」と直言されてしまった。まあそうだろうと思うし、僕もそのことは意識している。日常の部分と音楽の話を、分けようかと思ったことも何度かあるのだが、やっぱりこれはこのろぐのスタイルだからと、その都度思いとどまっている。

僕の中にあるものは、僕にもわからない部分がたくさんある。ろぐを書くことは、ごくたまにその部分的な姿を少しはっきりさせてくれる。そしてそれを読んでくれる人がいるのは、とても嬉しいことだ。音楽はこのろぐを続けるうえでとても重要な原動力の役割を果たしていると思う。こうして定期的に書き続けていることが、少なからず何らかの励みになっていることは間違いない。

ひとつだけささやかな想いがあるのだが、それは読んでくれている人の存在が、少しでも自分に感じられることができればという気持ちだ。カウンターはそのためにつけられているわけだが、やはり味気なさは否めない。コメント機能を使っていただいても構わないし、メールでもなんでも構わない。もちろん音楽の感想である必要はない。思いつきでも何かのついででも構わない。

曇り空だが、いい気候の週末になりそうだ。音楽を持って少し出かけてみようと思う。

9/23/2006

パット=メセニー&ブラッド=メルドウ「メセニー メルドウ」

 8月の下旬だったか、久しくご無沙汰になっていた米国アマゾンドットコムからメールが届いた。以前、僕が購入した商品に関連した新商品の発売を教えてくれる内容だった。このところ、円相場は決していい条件とは言えないのだが、お同じ商品でもアマゾンは米国と日本で随分値引率が違う。「予約販売は一律25%引き」につられて、僕はその商品とさらにその関連でレコメンドされた2枚の新作と併せて、3枚のジャズ関連のCDを注文した。先週末に届いたそれらの作品はどれもなかなか聴き応えのある素晴らしい内容だったので、今回から3連続でご紹介してみようと思う。

先ずは、ギタリスト、パット=メセニーとピアニスト、ブラッド=メルドウがデュオで組んだ作品。タイトルは2人の名前を組み合わせたそのまんまである。ジャケットは透明のプラスティックケースに刷り込んだ彼等の名前が、ネイビーと白のグラデーションの上に浮かび上がるようになっているという、なかなか凝ったものになっている。

メセニーについては、僕もかつては大ファンであり、来日公演に3回も足を運んだ程だった。しかし、最近の活動はどうもつまらなく、僕の中では「20世紀で終わったギタリスト」というレッテルが貼られていた。ECMからゲフィンレコードに続いた、一連のメセニーグループの作品は最高だったと思うし、その合間に出されたいくつもの共演プロジェクト(オーネット=コールマン、ジョン=スコフィールド、デイヴ=ホランド&ロイ=ヘインズ等々)も、まったく素晴らしい内容だった。ほとんどの作品はいまでも愛聴盤である。

僕の中で彼が「終わった」のは、世紀の変わり目に発表されたトリオ作品だった。ギタートリオのフォーマットでいままでの様々な作品を演奏するという、いわば「20世紀総括プロジェクト」のような企画だったのだが、これがはっきり言って超つまらなかった。スタジオ盤と2枚組のライヴが発売されたと思うが、購入後即中古屋に売り払った程だった。以降、彼の新作は何を聴いてもつまらないようにしか聴こえなくなった。

実はつい最近、メセニーグループの新作も買って聴いてみたのだが、音楽の濃密さと壮大さは従来の彼等のサウンドより一回りも二回りも進化していたが、僕にはやはりつまらなかった。思い込みというか自己暗示なのかとも思ったが、やはりいったん評価を下げてしまうとなかなか元には戻らない。我ながら恐ろしいことだと思う。さらに自分勝手な感想で恐縮なのだが、僕はやはりメセニー自身も疲れていたのだと思っている。もちろんその作品への気合いの入れ様は大したものだとは思うのだが。

メルドウは意外にも実は今回が初めてのCDである。アマゾンでキース(=ジャレット)の作品を買うと、必ずといっていい程、彼の作品がレコメンドに登場する。今回もそのシステムを使ってCDを買ったので、あまりエラそうなことは言えないが、ああいうシステムはアーチストにとっては有難迷惑な一面もあるに違いない。

僕はキースの作品をほとんど買っているから、メルドウの作品については、一枚も聴いていないにもかかわらず、薦められ飽きたような感情を持つに至ってしまっていた。何とも失礼な話だとは思うのだが、これは偽りのない事実なのだ。

さて、共にかつてはECMの看板アーチストだった2人が組んだ今回の作品は、ECMのライバルといっていいナンサッチレコードの企画によるものである。プロデューサとしてメセニーの名前がクレジットされており、全10曲中7曲が彼のオリジナルで残り3曲はメルドウの作品である。デュオフォーマットで演奏されるのが8曲、そして2曲でベースとドラムを加えた豪華クァルテットという趣向になっている。

内容は非常に素晴らしい。メセニーのギターは相変わらずだが、メルドウとのコラボレーションで引き出される面と、久しく聴いていなかった懐かしさのようなものも手伝ってか、とても素直に僕の耳に入り込んできた。デュオの作品はどれもとても表情が豊かだ。そしてクァルテットの作品も格別にカッコいい。"Ring of Life"の後半では、懐かしの(?)ギターシンセもしっかり登場する。この企画でツアーをやったら、見応え聴き応えはかなり期待できるだろう。僕も是非足を運んでみたいと思う。チケットは相当な値段になりそうだが。

というわけで、自分の中でしばらく評価が下がっていたメセニーと、リコメンドシステムの弊害で不遇だったメルドウ、2人のアーチストに対する僕の印象は、めでたくポジティヴに転換することになった。ちょうどいまの季節に相応しいような、気持ちのいい作品に巡り会うことができたのは幸せだ。そろそろ国内でも発売されてる様なので、いろいろな方に幅広くお聴きになることをお薦めしたい。

9/17/2006

ヴィム=ヴェンダース「アメリカ、家族のいる風景」

 先週はろぐをサボってしまい、日頃読んでいただいている皆様にはご心配、ご迷惑をおかけしました。お詫び申し上げます。特に何か事件があったというわけではなく、以下に書く仕事の関係で週末少しやらなければならないことがあり、そちらの方にかかりきりになってしまっただけのことである。

先週月曜日の夜から水曜日の朝まで、仕事で札幌に滞在した。4年半ぶりの北海道だった。仕事の内容については省略するが、本来は火曜日の朝出発すればいいところを、少しずるをして前日の夕方出発し、その日は自腹で宿泊をした。そこで、僕の幼馴染みである男と久々に食事をするためだった。彼は僕が付き合いのある友人の中では、一番古い友達で、現在は札幌で歯科医をやっている。雇われ身分だといっていたが、市内数カ所に病院を構えるグループでひとつの病院の院長を勤めている。

会食は彼の病院に近い居酒屋で、比較的夜遅めの時間から始まった。彼とはお互いの親のこともよく知っているので、僕の親父の近況も含め、話は先ずそう言う内容に展開した。ちょうど僕は、親父が入院して帰郷した二週間前に、僕の実家のすぐ斜め向かいにある彼の実家に立ち寄り、彼の母親と会話したばかりだった。お互いもういい大人であるので、かなりざっくばらんな話をしたが、それでもやはり隣の家の家族事情というのはなかなかわからないものである。

彼には奥様との間に3人のお子様がいて、いま札幌で楽しく生活をしている。この日はわざわざ僕に聴いてもらいたいものがある、といって、小学校5年生になるご長女の演奏するピアノを聴かせてもらった。発表会かなにかを録音したもので、曲目は僕の知らない作曲家が作ったショパン風の小品だった。正直どう思うかと聞かれて、僕は素直に「非常に上手いと思う」と答えた。予め説明を受けていなかったら、そういう人が演奏したものだとは絶対に思わなかったに違いない。

彼自身はいわゆる「プログレ」の大ファンで、学生時代から独学でキーボードやピアノを演奏していて、その割になかなか上手だった。娘さんがその影響をどの程度受けているのかはわからないが、その近辺では割と有名な先生に指導していただいていることもあってか、とても11歳かそこらの子供の演奏には聴こえなかった。彼はこれからこの才能をどうしたものかと考えているようで、目下の悩みは、本人がピアノをまったく楽しんでいないことだとこぼしていた。よくある話だ、僕は頭の中でそうつぶやき、ビールを一口やって、それをタバコの煙のように口から放った。

お互い明日の仕事のこともあるので、その夜は11時過ぎまで飲んで切り上げることにした。短い時間だったが、充実した一時だった。当たり前の話だが、ちょっとした居酒屋でも出て来る料理はどれもおいしかった。翌日の夜も、仕事の関係ですすき野でごちそうになったが、やはり同じことを感じた。慌ただしくでなく、もっとゆっくりと味わい楽しみたい街だが、今回は仕事目的なので仕方がない。またプライベートで訪れようと誓いながら、僕は札幌を後にした。

この2週間で、僕はいろいろな音楽を仕入れた。本当はそれらについても書いてみたいのだが、今回は先々週の末に自宅で観た映画をとりあげたいと思う。僕の好きなヴェンダース監督の最新作で、原題は"Don't come knocking"。日本では今年の2月に劇場公開され、先月末にDVDが発売された。

脚本がサム=シェパードと聞けば、20年前の名作「パリ、テキサス」を思い出さざるを得ない。今回はシェパード本人が主演もしている。テーマは邦題にもある「家族」であり、その意味で「パリ、テキサス」に大きく通じるものがある内容になっている。「パリ、テキサス」は映画の歴史に残る名作としていまもなお根強い人気を持っているが、今回の作品も負けず劣らずの見応えがあるものに仕上がっている。

内容はいつものようにここでは書かない。実力ある豪華なキャスティングと、テーマを裏打ちするに相応しいアメリカのアメリカらしい情景を捉えたカメラワークは、非常に見応えがある。内容について一つだけ書いておくとすれば、「家族を捜す旅」に一応の決着がついた後、ティム=ロス(「海の上のピアニスト」の人ですね)演じる男と、シェパード扮する主役が交わす会話があるのだが、これがこの作品における大きなメッセージとなって存在感を持っている。ここに描かれている現代的な家族の肖像を、実際の生き様として地で行くのがシェパード演じる男だとすれば、ティム=ロスの役柄はそれを現出する社会的な精神の存在を表現しているように、僕には思えた。その辺のところは、実際にご覧いただいて、皆さんなりに考えてみていただければと思う。

ちょうど「パリ、テキサス」がDVDで再発されたので、この作品を観て感銘を受けた僕は、早速購入した。この3連休のうちにゆっくり観ようと思っている。

この3連休に入る前に、僕はまた一つ歳をとって42才になった。今後もこのろぐは続けていきたいと思っているので、よろしくお願いします。

アメリカ、家族のいる風景 映画公式サイト
Wim Wenders公式サイト(英語)

9/02/2006

ラリー=コリエル&ミロスラフ=ヴィトウス「クァルテット」

 先週末を実家の急用で過ごしたまま、仕事に戻ってようやく1週間が経った。やはり少し疲れがたまったようだ。お昼を過ぎてパソコンの画面に向かっていると、時折強い睡魔がやってきた。あまり満足に仕事がはかどらなかった。

父親はなんと昨日退院したとの連絡があった。声はまだ少し弱々しかったが、しっかりしていた。もう少し病院にいればいいのにと思ったが、最近に医療制度では特に処置をする必要のない人を、病床で預かることができないのだそうだ。日本の単位人口当たりの病床数は、世界的に見ても多いらしいが、それでも足りないという背景には、単に医療制度の問題だけではないもっと深い人間的な問題があるのだろう。

今週末は兄が実家に行ってくれるらしく、来週からはまたヘルパーさんも定期的に来てくれるらしいので、その辺少し複雑な心境ではあるが、そうやっていくしかないのだと自分に言い聞かせた。

さて、このところちょっとしたラリー=コリエルブームになってしまったようだ。彼の参加したCDはそんなにたくさん持っていないが、コリエルの鈍く輝く個性は一度聴き始めると、しばらく尾を引いていくようだ。今回は、おそらく僕が彼の作品の中で最もよく聴いているものをとりあげてみた。

これは全編ラリーとヴィトウスのデュオ演奏が収録されているのだが、タイトルはなぜか「クァルテット」になっている。その答えは、ジャケット下に記載された「ビル=エヴァンスとスコット=ラファロに捧ぐ」でお分かりになるだろうか。彼らの精神を借りながら、あたかも4人で音楽を作り上げているというつもりでやりました、というわけである。

収録されている作品も、"Autumn Leaves"、"Some Other Time"、"Nardis"、"My Romance"等など、エヴァンスのその時代に関連するものを中心に、おなじみのスタンダードばかりだ。そして演奏も、2人の超絶演奏が、あたかもエヴァンス-ラファロのインタープレイのように、見事に絡み合いながら展開してゆく内容。聴くものには極上のひと時を提供してくれる。

作品が発売されてからもう20年近くになろうとしているが、この手の音楽はそう簡単に色褪せるものではない。朝の通勤、休日のお昼寝、家での食事のBGM、夜の一杯のお供と、本当にいろいろな場面でこの音楽を聴いてきた。これからも続くだろう。

発売もとのjazzpointレーベルは、現在も健在なようだが、インターネットなどより中古屋の店頭でたまに見かけるような気がする。最も最近僕自身が中古屋に足を運ぶ機会もめっきり減ってしまった。聴く音楽にはそれほど不自由していないのだが、なぜなのだろうか。

土曜日の真昼間、今日は気温も高めのようだが、蒸し暑さはもうほとんど感じられない。時折吹く風に、ダイニングのカーテンが揺れて、まるでヴィトウスのソロに合わせているように見える。

とりあえず心配事の一部は、解決したようだが、また新しい心配事が増えたようにも思える。年をとるとはこういう一面なのだろう。これから少し太陽の下を散歩し、外でお昼でも食べて帰ったらゆっくり昼寝をしようと思う。