7/30/2006

「登川誠仁&知名定男」

 梅雨明け。ようやく夏である。とても気分がいい。人々の開放的な格好も、何かやっと季節にマッチした感がある。いくら蒸し暑くて半袖Tシャツやショートパンツでも、やっぱり太陽の光がないことには、どうもファッションとして輝きがない。いまそれが、やっと本来の姿になれる時節である。

いままで、どちらかというとショートパンツは敬遠してきた。最近はそれが抵抗なくなってしまった。個人的には職場でもショートパンツをはいていきたい気分だが、いくらカジュアル志向の僕でもさすがにそれはまだできない。その点、女性はいろいろな格好ができて、まったくうらやましい限りである。

前回とりあげたスティーヴ=コールマンの新作は、正直もうあまりに素晴らしい出来ばえだ。ここしばらく毎日あれを聴いている。確かにコールマン独特の少し複雑な音楽かもしれない。しかし彼の音楽は実際に耳に馴染むと、それがいろいろな意味での自然の要素に満ちあふれていることも事実である。慣れてしまえば嫌味どころか、旨味ばかりが次々に出てくる。

もはやジャズという言葉は陳腐だろうが、あの作品はモダンジャズをルーツにした音楽としては、近年まれに見る傑作であることは間違いない。前々回の末尾にも書いたが、彼の作品は一度入手できなくなると、なかなか苦労するので、未聴の方は是非とも早めに入手されることをお勧めしたい。

今回は梅雨明けを祝って、やはり最近になって購入した僕が大好きな邦人アーチスト、登川誠仁の作品をとりあげたい。タイトルの通り、この作品は誠仁に見出された現代沖縄民謡の巨人、知名定男とのジョイントアルバムである。2人が出会ったのが1957年というから、もう半世紀ということになる。

前回このろぐでとりあげた「スピリチュアル ユニティ」とは異なり、今回の作品に収録されているほとんどの演奏は、沖縄民謡の基本スタイルであるところの、三線と唄だけで演奏されていて、セイグワー(誠仁の愛称)とその一番弟子知名による現代の沖縄民謡の神髄が存分に味わえる。本当に深い深い音楽である。

収録されているのは、沖縄民謡とそれを元にした作品が中心である。唯一、新たにやまと言葉(標準語)の歌詞がつけられた「十九の春」は、うらさびしい三線に乗せて交わされる、男女の心の吐露がもの哀しい。そして、「油断しるな」「豊節」「新デンサー節」など、誠仁の代表的オリジナルもしっかり楽しめる。

ユニークなサビを持つ「前当小の主」もその一つ。実話に基づいた歌詞らしいが、小気味よいサビとは裏腹に、対訳を読んでみると意外なリアリティに驚かされたりもする。誠仁が相当な女好きであることは、歌詞やライヴの合間の語りなどでも疑いはないが、誰がなんと言おうと、やはり人の元気の源としてとても大切なことであるには変わりないのだ。

曲によっては島太鼓や琉琴などが入って、音楽の奥行きを加える。特に島太鼓の存在は、これまたとても味わい深いもの。なんというか、いわゆるスウィングとは正反対に、ただでさえ遅れ系(タメ系)の沖縄音楽のリズムを、いっそう際立たせるのだ。しかも、それは決して派手な演奏にはならず、リズムの最も重要なアクセントだけを、高低2つの太鼓で核心を優しくように撫でるように押さえていく。まさに「心の太鼓」である。沖縄音楽では先ずは三線が注目されるが、島太鼓はそれに劣らぬ重要な役割と、深い魅力を持っている。この作品では、収録曲のほぼ半分で島太鼓がたっぷり楽しめるのも嬉しい。

「挽物口説〜唐船ドーイ」は、2人に加えて吉田康子の唄と三板が加わり、誠仁の唄と島太鼓、知名の唄と三線が終盤にかけて三つ巴で盛り上がる様は、アルバムを締めくくるにふさわしい見事な演奏。これぞ沖縄音楽の醍醐味である。フェードアウトになっているのがもったいない位だ。

もうすぐ8月。沖縄ではそれがもう少し長いのだろうけど、梅雨が明けてお盆過ぎまでという本土の夏本番というのは意外にも短い。紫外線対策などとばかりいわずに、誠仁らの音楽を聴きながら、太陽とはしっかりつきあっておきたい季節である。

7/22/2006

スティーヴ=コールマン「ウィーヴィング シンボリクス」

 久しぶりに少し長めの散歩に出かけた。自宅がある川崎の中原区から多摩川にかかるガス橋を渡り、環八通りを渡って大田区池上を経て、JR大森駅まで足を伸ばした。大森駅東側の商店街にある「食堂富士川」でお昼を食べた。ここはいろいろな種類の定食が500円前後で食べられる、とてもよいお店だった。僕はミックスフライ定食(520円)、妻は刺身盛り定食(600円)を食べた。隣にある同じ名前の居酒屋も、非常に興味をそそられるメニュー(花咲ガニが1パイ780円と書かれていた)と雰囲気だったが、残念ながらまだ開店していなかった(午後3時では無理もない)。

満腹になったので、居酒屋はいずれということにして、さらにそのままJRの線路沿いに歩いて、隣の蒲田駅まで歩いて行くことにした。このあたりの道は毎朝通勤電車から眺めている景色なので、とてもなじみ深く感じられる。蒲田に着く途中、日本工学院付近で町内を流れる呑川沿いを歩くのだが、川のあまりの汚さと悪臭に2人で閉口してしまった。

川沿いに建てられた小さな一軒家に「オープンハウス」のノボリが建てられ、販売会社の人と思われる男性が、僕らに「どうぞ中をご覧になってください」と笑顔で話しかけてくれたのだが、僕は思わず無視して反対側の川面に目をやり「きったないなあ、この川」というのが精一杯だった。あれでは、とても人の住むところではない。

このところの雨のせいもあるのだろうが、いつも通勤の車窓から眺める川が、最近だんだんと汚くなっているように気がしていた。たまたま実際に川沿いを歩いてみることになったわけだが、正直ここまでひどいとは思わなかった。少し前まではコイが泳ぐ川だったらしいのだが。付近のおじさん達も足を止めて、悪臭の立ちのぼる川面を心配そうに見つめていった。

JR蒲田駅について、トイレ休憩をかねて少し駅ビルのお店をぶらぶらした後、結局そのまま東急目黒線沿いに歩いて帰ることにした。駅の西側の商店街ではお祭りをやっていて、わけもわからず人だかりに並んでみたら、冷えた発泡酒を1本ずつくれた。気前の良さに嬉しくなったのだが、もはや商店街で食べたり買ったりするものがなにもなかったので、少し申し訳ない気がした。

少し雲行きが怪しくなったりもしたが、なんとか雨は降らずに済んだ。武蔵新田を過ぎて多摩川沿いに出ると、空が開けて気持ちがよかった。この川沿いでは、いつものようにいろいろな人が思い思いに時間を過ごしている。そのまま下丸子の「オリンピック」で夜の食材などを買って、再びガス橋を渡って自宅にたどり着いた。距離にして十数キロだったが、曇り空にそこそこ風もあって、美味しい定食も食べられ、不快な景色もあったが、全体としては快適な散歩だった。

前回のろぐでも少し触れた通り、今回はスティーヴ=コールマンの新作をとりあげる。フランスのラベルブリューへの移籍第1弾となった大傑作「レジスタンス イズ フュータイル」から4年、早くも同レーベルで4作目の作品になる。ほぼ1年に1作というペースは、ジャズミュージシャンとしては決して珍しくはないのだが、彼の場合、常に複雑なオリジナルを中心に、毎回新しい音楽を盛り込んだ作品ばかりで、それを考えれば、僕にはかなり驚異的なクリエイティビティだと思われる。

「レジスタンス〜」が、それまでのスティーヴの音楽を総括したライブ演奏集だったのに対し、それに続く2作はスタジオ録音で、しっかりと新しい音楽のスタイルを追求して来たような印象があった。伴奏からピアノがなくなったり、新しいスタイルのヴォーカルを取り入れるなど、表面的な変化ももちろんだが、作曲のスタイルが、従来の作品に比較してさらに複雑にかつ洗練されたものになってきているようだ。

今回はスタジオ録音で2枚組という大作になっており、内容は極めてエキサイティングである。これほどまでに新しいジャズ、新しい音楽が連続して出てくる様には、ただただ圧倒されるばかりだ。前々回とりあげた「サウダージ」ももちろん良かったが、僕としては今回の作品が最近のベストアルバムだと思っている。もう何回聴いたかわからないが、19曲の演奏は大きな興奮のうちに過ぎ去る。

編成はソロ、デュオ、トリオから、ブラジルのリズム・アンサンブル・トリオ「コントラ」を含む11人編成のものまで様々だが、そうした異なる編成を使いながら、同一のモチーフを使った曲を多面的に展開したりしている。特に「リチュアル」と題された5つのヴァリエーションは、現在のスティーヴが持っている音楽観を非常によく反映したものだと思う。

スティーヴ含めそれぞれのメンバーの演奏は、超一流の最先端ジャズを存分に楽しませてくれる。特に今回注目されるのは、後半で素晴らしいソロを聴かせてくれるギターのネルソン=ヴェラス、そして韓国人女性ヴォーカルのジェン=シュユも、スティーヴの作品が求める非常に幅の広いヴォーカルを、個性的に聴かせてくれる。さらには、現在ブランフォードのグループを支えるリズムの重鎮、エリック=レヴィスとジェフ=ワッツによる2曲のサックストリオ演奏は、やはり圧巻の出来映えである。とにかく聴き所がいっぱいのアルバムなのである。

そして、一番驚いたのは、今回のディスクがそれぞれCDとDVDを片面ずつに収録したものであるという点。どういうことかというと、1枚のディスクの片面がオーディオCD、裏がDVDになっているのだ。1枚目には、スティーヴが自身の音楽について語るロングインタビューを収録、2枚目にはブラジル録音のリハーサル中に収録された、スティーヴとドラムのマーカス=ギルモアによる"Littele Willie Leaps"のデュオセッションが収録されている(輸入盤ではジャケット裏の最下段に小さく記載があるだけなので注意)。

とまあ、いろいろな意味で驚くことばかりの作品であるのだが、よくまあこれだけ次々と新しい音楽やそれにとどまらない試みをやれるものだと、本当に感心させられる。それは決して音楽的な創造性の問題だけではないだろうと思う。スティーヴはやりたいことが本当にたくさんある人なのだが、彼が凄いのは、それを着実に実現していくところにある。

今回のようなCD−DVDでのリリースは、レーベル会社やディスク製作サイドからすれば、非常にイレギュラーな案件だろう。企画を聞かされた段階で、それをビジネスベースで前向きに捉えられる人がどれほどいただろうか。スティーヴはそれをちゃんと説得して実現し、しかも、その間にはブラジルまでメンバーを引き連れて、コントラを含むセッションをレコーディングしたり、欧米を中心に演奏活動や音楽理論の教鞭をとったりしているわけである。

このあたりのタフネスが、彼の素晴らしい音楽を支える根本にあることは間違いない。少しでも良いから自分も見習わねばと思う。ともかく、早く来日公演を観たいものだ。いまの僕だったら、仕事を休んでもすべてのセッションにつき合ってもいいと思う。

M-Base Web Site Steve Coleman公式サイト

7/16/2006

高橋竹山「津軽三味線」

 蒸し暑さが続くようになった。少し前までは昼間は暑くても、夜になると涼しい空気が降りて来ていたものだが、先週あたりから、東京は熱帯夜となってしまった。この時期、仕事から帰って自宅の扉を開けると先ず感じるあの熱気、忘れたくても忘れられない感覚である。とうとう寝室だけでなく、居間でもエアコンを使い始めた。

このところ、少し仕事の方が落ち着いているせいか、音楽から得られるものが多い様に思う。前回のトリオ・ビヨンドはその後何度も聴いているが、あれはまったく素晴らしい演奏である。ECMレーベルにおけるディジョネット作品の中でも、抜きん出た素晴らしさだと思う。ギターファン、オルガンファンも含め、多くの音楽好きにお薦めしたい作品である。

先週の始めに、スティーヴ=コールマンの待望の新作2枚組がようやく届き、既にiPodでヘヴィーローテーションと化している。2回通して聴いたあたりから、満足笑いが止まらない状態になった。味覚では「ほっぺたが落ちる」、視覚では「目が釘付けになる」などというが、音楽の場合はなんと言うのか。ともかく素晴らしい。これについてはなんとか興奮を抑えつつ、次回のろぐでとりあげることにしたいと思う。

一つだけ先に言っておくとしたら、スティーヴの作品は国内では一度逃すとなかなか入手が難しくなるので、気になっている人はさっさと手を打っておいた方がいい。因みに僕は、値段に目がくらんでいつものカイメンで購入したのだけれど、久しぶりにかなり(ほとんど1ヶ月ほど)待たされる結果となった。

さて、前々回にフラメンコをとりあげたが、実はそれに前後して、手持ちのコレクションにあるワールド系の音楽数点にも手が伸びていた。どれもいずれこのろぐに登場することになるだろうという名作ばかりだ。その中に、わが邦楽を代表する津軽三味線の名手、高橋竹山のベスト盤がある。今回はこれをとりあげてみたいと思う。

以前、このろぐで尺八に関連する作品をとりあげたことがあり、確かその時に書いたかと思うのだが、自分が純邦楽を好んで聴くようになるとは、若い頃には想像もつかなかったものだ。いま聴いてみると、尺八も琵琶も琴も、そして三味線も、こんな素晴らしい音楽はないと素直に感動するばかりである。

音楽でも仕事でも、そして人物でも何でもそうだと思うのだが、早く経験するということにそれなりの有効性はあるとは思うが、必ずしもそれが最良の生き方とは思わないというのが、最近の実感である。それよりも、常日頃から重要なものに巡り会うべく感性を高め、巡り会うための行動を惜しまず、そして、その巡り会いを大切にしてそこからできるだけ多くのものを引き出す努力をする、そういう姿勢が大切なのだろう。

高橋竹山は1910年に生まれ1997年に没した。生まれて間もなくかかった病がもとで、視力をほとんど失い、やがて津軽三味線の門下に入った。戦後の日本において、津軽三味線の芸術を日本全国から世界にまで拡げた大功労者である。演奏はレコードをはじめ映像などもいろいろな形で残されていて、僕らはいまそれらを通して竹山の芸術に触れることができる。

今回の作品は、彼がビクターに残した演奏の記録からベストと思われるもの14曲を収録したものらしい。僕はまだこのCD以外で高橋を聴いたことがないので、あまり軽々しくは書けないのだが、内容の素晴らしさは少し聴いただけですぐに共感できるはずである。特に津軽三味線のすべてが盛り込まれたといわれる、冒頭の「津軽総合独奏曲」の素晴らしさは圧巻である。メロディー、ハーモニー、リズム、そして三味線の音色という、音楽の基本的要素のすべての面で強烈なメッセージが伝わってくる。

二代目の高橋竹山や少し前に人気の出た吉田兄弟のように、ジャンルを超えた三味線音楽への挑戦はもちろん素晴らしいことだとは思う。しかし、僕はいまはそういう演奏には興味がない。なぜならそれらは三味線本来の魅力を世に伝えるものとしては、僕にはとても中途半端に思えるから。僕が聴きたいのは、混ぜ合わされたものの源流にある音楽だ。

三味線は習得するのが難しく、芸としてはきわめて厳しいものと言われることもある。それ故に、津軽の気候や風土の厳しさを重ねることもできるかもしれないが、実際には、お囃子やお祭りなど楽しみの感情が音楽の本質になっている。だから身を入れて耳を傾けてみると、気持ちが楽になり力が湧いてくる様になるのだ。たまに通勤の行き帰りに耳にしてみると、これが不思議と心にまで響いてくるから面白い。

蒸し暑い夜、エアコンを少し効かせた部屋で独りこの作品に耳を傾けてみる。ほとんど何も進めず、何も残していない自分がそこにいる。世の中はいつも、その時々のやり方で厳しく難しいものである。でもそれをしっかりと楽しむことが重要なのだ。

7/08/2006

トリオ・ビヨンド「サウダージ」

 比較的忙しい1週間だった。最近の僕にしては珍しく、夜の宴も3件あった。仕事は少々綱渡り的なところもあったが、なんとか無難にやり遂げた。自分たちの成果を記事にしてくれるという、新聞向けの参考資料をつくったり、自分の考えをプレゼンして、ディスカッションするという内容だった。新しい人との出会いなどもあり、新しい何かを期待できそうな側面もあった。自分の意見を持ったうえで、それをベースにいろいろな人と交わるというのは、とても大切なことである。

夜の宴の方は、それぞれに個性のある内容で、楽しい思いをさせてもらった。金曜日の夜に開催された男3人の飲み会では、清澄白河にあるどじょう鍋の老舗「伊せ喜」に行った。あの付近にいまも多く残る、江戸の文化を伝える老舗料理屋らしい雰囲気が新鮮に感じられ、広い相座敷で名物の「どぜう鍋」や柳川、鯉のあらいなどに舌鼓をうった。どじょうを食べるのは2回目だったが、あれはなかなか美味しいものだと思う。こういうものは食べられる機会に行っておいた方がいい。値段がやや高いのが気になるが、味や雰囲気は大満足だった。

今週は、久々にジャズの新作を聴きまくった。ジャック=ディジョネット、ジョン=スコフィールドに、オルガンのラリー=ゴールディングスを加えて結成されたユニット「トリオ・ビヨンド」が、2004年11月にロンドンに出演した際の模様を収録した2枚組ライヴアルバムである。

このユニットは、ジャックの呼びかけで結成されたもので、今は亡きジャズドラマー、トニー=ウィリアムスへのトリビュートとして企画された。従って、演奏されている内容もトニーに因んだ曲が多く含まれている。トニーについては、2年程前に一度このろぐでとりあげた。今回の企画も、特にトニーがマイルスの元を離れて、はじめて自己の音楽を追求したユニット「ライフタイム」をテーマにした内容になっている。

僕としては、企画の主旨だけで、これはもう聴かないわけにはいかないと思った。オルガントリオという編成になっているのも、非常に興味をそそられるところだ。音楽表現において特に個性とその発展に重きを置くジャックの様な人にとっては、やはりトリオというのは最も理想的な編成なのだろう。実際に音を聴いてそれが一番はじめに納得した点である。

マイルスグループに在籍し、その後自己のグループを結成したという意味で、2人のドラマーは共通の経歴を持っている。表面上の音楽性はかなり異なる(というかジャックの活動があまりにも多岐多様なのだが)ものの、それぞれのドラマーとしての強烈な個性を中核に、様々な演奏家とのコラボレーションを繰返しながら、着実に名作を積み重ねていった点も同じである。

ただ、やや残念なことに、トニーのライフタイムに対する評価については、正直まだ少し定着していない様に思えるのだ。ここ最近になって、ようやく当時の作品が復刻発売されるようになってきている。その意味で、いまこの時期にジャックがこうした主旨の企画作品を発表したことは、僕個人としても嬉しい気持ちで一杯である。

演奏内容の素晴らしさについては、もはやコメントの必要はないと思う。別にジャックがトニー風に叩くわけでもなく、いつものマジックが2時間弱のステージでたっぷり展開される。おそらく2部構成のステージをほぼそのままの形で収録したのだと思う。数回聴いたいまの時点では、2枚目に収録された最後の2曲、コルトレーンの"Big Nick"、そしてトニーの"Emergency"の聴き応えが特に気に入っている。

いろいろな意味で表現における「個性」というものの重要性と難しさについて、考えさせられた作品である。個性は確かに難しいものになりつつある様に思える。しかし、その基本は常に単純なものでもある。おそらくそれは音楽に限ったことではなく、いろいろな人間の営みに共通するものに違いない。
 

7/02/2006

ファン=マニュエル=カニサレス「ノーチェス デュ イマン イ ルーナ」

 あっという間に1年の半分が過ぎた。振返ってみると、世の中の出来事としてはスポーツのイベントを中心に、そして僕自身の仕事やプライベートでも「世界」というものを意識することの多かった半年だったと思う。

インターネットで世界は身近になったというのは本当だと思うが、依然として世界の壁は厚いものでもある。これまで遠かった世界のことを知るのが容易になった一方で、身近な世界の姿が深みを増したり、時にはそれがねじれたりしている様にも思える。そういう意味では、地球のいろいろな場所という意味の「世界」と、一人の人間の中に築かれていく「世界」という、2つの世界の相対的な距離は、あまり変わっていないのかもしれない。

僕はいまのところ積極的に海外に出かける方ではない。それが僕の中にある一つの限界を生み出してしまっていることは、僕自身もよくわかっている。そして、それがある種の苦手意識の結果として出て来ているものであることも、もちろんわかっているのだが、だからこそ自分では別の意味で「世界」を深める努力をして来たつもりだ。インターネットはその意味での道具として、本当に多くのものを僕にもたらしてくれた。だから僕はこれが大好きなのだろうと思う。

しかし、インターネットに限らず、所詮道具というものは、行動につなげて初めて意味があるものだ。僕のインターネット活用も、その意味ではそれがいろいろな行動につながっているから、充足感が得られているのだと思う。逆に、最近ちょっと手が遠のいてしまっているベースのことを考えると、反省ひとしきりである。あんなもの、傍らに置いてるだけでは何にもならないのだ。

さて、少し前のろぐで、妻の職場の同僚で、会社勤めの傍ら、フラメンコのバイレ(ダンサー)として、自己の世界を追求している人について触れた。今度その彼女が会社を辞して、フラメンコにさらに近づくべく、スペインのアンダルシアに向けて旅立つことになったのだそうだ。

僕自身は、彼女にはあの時の公演以外には2、3回お目にかかった程度だった。妻とはいずれ家にでもご招待して、ゆっくりお話でも聞かせてもらおうよなどと言っていたところだったので、少し残念ではあるが、(僕にはとてもできそうにない)大きな決断をされたことには、ただただ敬服するばかりである。短い旅行に行ってどうなるというものでもないだけに、長い滞在の安全と、何かが掴みとれることをお祈りしたいと思う。

そんな旅立つ人へのお餞別の意味を込めて、今回は僕が大好きなフラメンコギターの作品を選んでみた。ファン=マニュアル=カニサレスは、1966年生まれというから、今年で40歳になるフラメンコギターの名手。若い頃から頭角をあらわし、現代の巨匠パコ=デ=ルシアとの共演を10年間以上続けるなど、早くからその世界では名が知られてはいたが、そこはヨーロッパの伝統らしく、フラメンコの世界も極めて層が厚い。少し名が知れたからといって、そう簡単に若手が一人前扱いされる世界ではない。

今回のアルバムのタイトルを直訳すると「イマンとルナの夜」という意味。1997年に発売された、31歳の若きカニサレスによる記念すべきソロデビュー作である。イマンは「磁石」、ルナは「月」という意味がある。ともに長く大きな航海に出るうえで、欠かすことのできない大切なものである。長い修行を経た後、一人前のフラメンコギタリストとして独り立ちしようとする、カニサレスの決意がタイトルに込められているように思える。

そして彼のその決意は、この作品に収録された全8曲のすみずみに余すところなくみなぎっており、新しい時代のフラメンコギターの魅力が満喫できる。とりわけ素晴らしいのは、やはりアルバム冒頭の"Se alza la luna"(昇りゆく月)である。作品中唯一のギタ−独奏曲であるこの演奏は、タイトルにも表されているように、独り立ちに向けたカニサレス自身による強烈な決意表明である。

ザパテアード(フラメンコのリズムの1種)をベースに、細部に至るまでしっかりと計算された構成だが、フラメンコの醍醐味である即興性に基づく緊張感は、繰返し何度聴いても損なわれることはない。冒頭で静かに昇り始めた月が、確実な足取りで次第に明るさを増し、彼が目指す新しい音楽の姿を少しずつ照らし出してゆく様は圧巻である。白熱の4分間が経過して最後に訪れる簡潔だが圧倒的なエンディングも、鳥肌ものである。はじめて聴いた時は、ひたすら開いた口がふさがらない状態だった。衝撃的だった。以来、僕はこの曲をいままで何度聴いたことかわからない。

どんな人にとっても、将来は常に期待と不安が入り混じった、非常に不安定なものである。そこにおいて、これだけの自信に溢れた新しい世界を提示することができたカニサレスは、やはり超大物である。既に発売から10年近くが経過したが、現在も彼は着実に新たなフラメンコの歴史を切り開いている。聴いて感心している場合ではないのだが、やはり何度聴いても「オーレ!」と発する以前に「う〜ん」と唸るばかりである僕は、やはり小粒だ。

Cañizares JMCによるカニサレス公式サイト (日本語)