5/28/2006

 

仕事のことを中心にいろいろなことが積もってしまい、なんとも心が重苦しい週末になってしまった。雨降りばかりだったことも影響しているのかもしれない。もちろん僕のことだから、終電とか徹夜とかそういうことが続いているというわけではない。ただやはり忙しいには違いないのだ。

音楽はいままで聴いて来たものを、相変わらず通勤とか自宅で聴いていたのだが、今週はなぜかこれを書こうというものがないままこの時間をむかえてしまった。僕にとって、音楽に安らぎとか元気をもらわないことはない。だけど、今週のことは振返ってみて、あまりここに書いてみようと思うこと、あるいは書くことができることがないというのが、実際のところである。

先週ようやく届いた12枚組のCDセット(前回のろぐで10枚組と書きましたが実際は12枚組でした)も実はまだ1枚も聴いていない。そのくらい余裕がない1週間だった。

少し考えたのだが、今週はろぐの更新はお休みということにさせていただきたい。毎週読んでくれている皆さん、ごめんなさい。

5/21/2006

アンソニー=ブラクストン「23スタンダーズ (クァルテット)2003」

 ぱっとしない天気の一週間。このまま梅雨入りするのでは、という観測もある。この時期に期待する気候があるわけではないから、別に構わないのだけど、通勤時の雨はあまり有難いものではない。この週末はかなり気温があがり、いまこれを書いている時間でも、部屋の中でTシャツ1枚で過ごせるようになった。

比較的忙しく過ぎた一週間。飲みに行く機会もなく、もっぱら家に帰って寝る前に少し音楽を聴きながら、缶酎ハイとかビールを飲った。小説「カラマーゾフの兄弟」は少しずつ着実に物語が進んで、ようやく最終巻である下巻に入った。まだ読んでいるのかと思われる方もいらっしゃるかもしれないが、僕にはちょうどいい進み具合だ。

前回、アンソニー=ブラクストンの「フォー アルト」で少々支離滅裂なことを書いた。今回はその最後でお約束した通り、最近購入した彼の新しい作品について。これは、僕が日頃お世話になっている、米国のJazz Loft.comからのメールで予約購入したものである。アマゾンでの取り扱いがない商品なので、今回はジャケ写から同店へのリンクを張ってある。

Jazz Loftを運営するアラン=ローレンスとの付き合いが、いつ、どの作品から始まったのか思い出せない。彼の店はその名の通りジャズを中心としたCDやDVDを取り揃えているのだが、とりわけ熱心なのが、ヨーロッパのインディーズ系フリージャズのカタログである。アンソニーをはじめとする様々なアーチストの作品が、非常に豊富に揃っている。

この手の作品は、それまでは首都圏のディスクユニオンで偶然見つけて購入することが多かったのだが、最近ではほとんど、レーベル各社のサイトなりDMで得た新譜情報を元に、アランの店で購入するのが僕のスタイルになっている。おかげで今ではレーベルの新譜情報よりも先に、彼から優先予約の案内をもらう様になり、それがまた有難いことに僕のツボを心得てくれているものだから、ついつい購入させられてしまう状況になってしまっている。

今回の作品は、アンソニー=ブラクストンが自己のクァルテットを率いて行った2003年の欧州ツアーから、タイトル通りいわゆるスタンダードナンバーと呼ばれるものをばかりのテイクを集めたもの。CD4枚組に23曲、4時間半の演奏が入ってる。後から知ったのだが、このリリースの直後に、同じくCD4枚組で20曲を収録した続編が発売されており、これも先日さっさと購入手続きをすませてしまった。

いずれのセットも1000セットの販売で、これはもちろん企画発売元のLEO Recordsの意図によるものだ。1000セットと聞くと、随分少ない様に思われるかもしれないが、果たしてアンソニーの音楽を好んで聴く人が、地球上にどのくらいいるのか、それを一番よく知っているのは、アンソニー本人よりも、彼の作品をこうして記録しては販売しているレコード会社の人ということになるのだろうから、彼等が決めた数はそれなりに妥当な目安なのだと思う。

日本では「限定」とか言ってもったいぶった商売をする貧しい風潮が、まだあるように見受けられる。確かにマスマーケットを前提にした商売ではそうした手法もわからないではないが、もはや時代はそういう状況ではない。特に音楽のような嗜好性の強いものほどその傾向は強いと思う。しかもそれがフリージャズとなればなおさらである。ともかく僕はアランのおかげでこの作品の存在を知り、それを実際に手にして聴くことで、素晴らしい体験をさせてもらったわけである。大げさかもしれないが、一期一会とはこのことだろう。

さて、ブラクストンのスタンダード集とは一体どういうものかと、興味をそそられる方もさほど多くはないとは思うが、これがなかなかどうして非常に面白い選曲なのである。収録曲のリストは上のジャケ写をクリックして見ていただければお分かりの通り、いわゆるコール=ポーター作品のようないわゆる狭義のスタンダードナンバーに加えて、コルトレーンやショーター、モンクと言った演奏者サイドからの名曲がずらりと並んでいるのが面白い。ある意味、やっぱりブラクストンも普通のサックスオタクなんだなと安心させられる内容である。

例えば、このセットではコルトレーン作品が3つ取り上げられている。"Giant Steps", "Countdown"そして"26-2"の3曲だが、いずれもいわゆる「コルトレーンチェンジ」(彼流の独特のコード進行をそう表現する)の代表作で、演奏技量があるレベルまで達した人なら、一度は挑戦するもの。現代音楽の作曲家として音楽の構造面でもかなりの研究を積んでいるブラクストンらしいところである。モンクの作品についても同様のことが言えると思う。

かと思えば、"Desafinado","Black Orpaeus","Recorda Me"といったボサノヴァ系の有名作品もまとまって取り上げられていたりして面白い。テンポなしの静かな集団即興のなかから、突然テーマが浮かび上がってドキリとさせられる"Desafinado"や、原曲好きの人からは「ちゃんとテーマ吹けよ、この下手クソ!」と怒号が飛びそうな後2曲など、それぞれに彼らしいやり方(ここはあまり軽く考えない方がよいと思う)で演奏がなされていて、やはりコイツは一筋縄ではイカンなあとほくそ笑んでしまう。まあそれがブラクストン流のスタンダード集の醍醐味なのだ。

ブラクストンのソロは、サックス演奏をする人からはある意味気味悪がられる演奏スタイルなのだと思う。タンギングが中途半端に聴こえるし、音も太くて力強いのとは対象である意味病的である。しかし、そのスタイルだけが醸し出す独特の雰囲気は、スローでの可憐さ、ミドルテンポでの気怠さ、アップテンポでの疾走感などどの曲についても見事な表現をしていると思う。「フォー アルト」で聴かれる計算された技巧の世界は、こうした演奏スタイルにおいても十分にその力を出していると思う。

クァルテットを編成するメンバーも素晴らしい演奏を聴かせてくれる。ドラムとベースのリズム隊は意外にも堅実な演奏で、長尺のソロで時に暴走するブラクストンをしっかりサポート。そしてギターのケヴィン=オニールはブラクストンに負けない超絶技巧でしっかりとソロを楽しませてくれ、ブラクストンとの対話も素晴らしい。

いずれ届く続編と合わせて、43曲9時間のスタンダード集だが、これはiPodで繰返し聴いてもなかなか飽きそうにない極上の演奏集である。これを企画したLEO Recordsにも拍手を贈りたい。

昨日、アランの店から、やはり別に購入していたCD10枚組のセットが届いてしまった。最近他に聴きたいものがたくさん出て来て嬉しいのだが、消化不良にはしたくないので、そちらはカラマーゾフの兄弟の様にゆっくりと聴いて行きたいと思っている。これがまた凝った作品集なのだが、またいずれ必ずこのろぐで採り上げることになるだろう。

まったく大変なものを買わせてくれる店である。でも僕はとても親しみを感じているのだ。

LEO Records Music for the Inquiring Mind and the Passionate Heart 今回の作品を含め試聴やダウンロードができます。

5/15/2006

アンソニー=ブラクストン「フォー アルト」

 長い連休明けの一週間、これがなかなか心身共に疲れるものだった。やらねばならないことはわかっているのだが、どうも心も身体もなかなか言うことをきいてくれない。それでも木曜日あたりになって、頭の方はようやくそれらしい雰囲気になってきたのだが、身体の方がまた疲れてきていた。木曜と金曜には、それぞれプライベートと社用の飲み会があったのだが、どちらもあまりピンと来ない酒席に終わり、疲れはますます増大した。

そんな一週間を終えて迎えた土曜日。雨降りの空模様だったにもかかわらず、久しぶりに渋谷に出かけ、タワーレコードとディスクユニオンでいろいろな音楽を聴いてまわった。4月以降は初めての渋谷。新しく東京生活に加わった人達のにぎわいもあって、あいにくの空模様だったにもかかわらず賑わっていた。そういう街の空気は、僕を新鮮な気分にさせてくれた。

タワーでもユニオンでも、欲しいCDが本当にたくさんあった。普通に買えば1万数千円程度の買物にはなったはずが、今回はすべて我慢だった。1枚も買わない代わりに、試聴機にあるものをひたすら聴きまくり、勢い長時間の滞在になった。独りで外で過ごす時間として、これはこれで楽しいひと時である。昼過ぎに着いて、渋谷を出たのはもう夜になりかけていた。

なぜそこまで買うのを我慢するのか。前回のろぐで書いたように、先月と先々月にまとまって購入したものが、遅い到着ラッシュとなっていま集まって来ている。今月の前半は17枚のCDが届くことになっている。既に昨日までに7枚が到着。やっぱりこれは食べ物と同じ、買ったものはちゃんと聴かないわけにはいかない。枚数が多いとはいえ、以前のような暴飲暴食というか暴買暴聴ではない。一応、自分の興味関心をもとに、それなりに買う意味を考えて踏み切ったものなのだから。あまりつまみ食いとか、刹那的な感想だけを抱いて済ませたくはない。

さて、そのなかにリード奏者アンソニー=ブラクストンの4枚組CDが含まれている。これは5月の初日あたりに届いたもので、その内容はiPodで広島への行き帰りの新幹線をはじめに、この休み明けの仕事に気が乗らない一週間も、それなりに楽しませてもらっている。

本当は、今回はその作品をとりあげようと思ったのだが、その前にこれまで彼については何も書いていないことに気がつき、それならば、その序論として僕がアンソニーのことを気に入っている理由について書いてみるのも悪くないと思った。やはり先ず採り上げるべき作品は、僕にとって彼の最重要作であるところの「フォー アルト」かなと思った次第である。

アンソニーはいわゆる「フリー」系のジャズリード奏者であり、誤解を避けたいと願いつつ書くなら、同時に現代音楽の作曲家でもある。マルチリード奏者とも言われる様に、サックスに限らず、クラリネットやフルートなど様々な管楽器を演奏する彼だが、彼がメインとするのはやはりアルトサックスだ。そして今回の作品はそのタイトルが示す様に、アルトサックスを題材にその演奏技能と作曲の限界について、彼自身の音楽哲学を一気に収斂させた傑作である。

この作品は彼のアルトサックス1本のみの演奏で、伴奏など共演者は全くいない。当時、彼が尊敬したり親交のあった芸術家達に献上する主旨のタイトルがつけられた収録作品8つは、すべて一発録りでいわゆる多重録音やつなぎ録りは一切ない。

録音は1969年で当初はLP2枚組として発売され、いまではそれが1枚のCDで楽しめる。CD化されるまでにはそれなりの時間がかかった。僕がLPを買わなくなってもうかなりの年月が経つが、この作品は僕がそれなりの思いを持って買ったLPとしては最後の方になるものだと思う。震災前の神戸三宮にあったレコード屋で見つけて、6000円で買ったそのレコードは、いまでも大切にしまってある。

まあともかくこれを体験するには、これを聴くしかない。もちろん聴くことは本来とても簡単な行為であるはずなのだが、現代においてそれはある意味非常に容易ならざる行為になってしまっている。それは音楽に限ったことではない。文学、絵画、映像などの作品鑑賞だけでなく、広く人との付き合いや、個々の業務に始まりその集積であるところの仕事というもの、さらには恋愛やら子育てなど人間の行動全般について言えることなのだろうが、人は自由と時間というパラドックスのもと、狭い経験と乏しい情報という矛盾に束縛されていて、そのことが行動を逆に非常に限定的なものにしているということだと思う。

アンソニーの一連の作品のなかでも、とりわけ象徴的な今回の作品については、二重の誤解というか偏見があるように思う。ひとつはまったく何も知らない人が、この作品について抱くイメージの様なものなのだが、サックス1本のソロ演奏とは一体何ごとかというものである。よく知られたスタンダード演奏ではなく、それが奏者のアドリブというのは気味が悪いというもの。これは残念にしても、ある意味仕方がない偏見かもしれない。

もう一つの誤解、これは最初のものよりもある意味もっとたちが悪いものだと思うが、一度この作品を体験した人が抱いてしまう体験が、そのまま人に伝わってしまうというケースである。別に難しいことを言っているのではない。このマイナーな作品で一番有名な部分はどこかと言えば、わずか30秒に満たない静寂の演奏で終わる1曲目とは対照的に、ブラクストンのアルトサックスが10分間にわたって狂った様に咆哮する2曲目「作曲家ジョン=ケージに」であることは間違いない。

この演奏はかなり壮絶なもので、もちろん作品の重要な部分を占めていることには違いない。ここで彼がケージに対するメッセージとしているのは一体何かという問題(ブラクストンはケージのことを尊敬しているのかそれとも嫌いなのか?)についてはさておき、LP2枚組70分という全体の構成から考えて、ここで挫折あるいは満足してしまう体験者が、この作品に対するイメージをこれだけで決定的に形成してしまう危険性があるという、非常に大きな問題をはらんでいる。

この演奏を含め、収録されているブラクストンの作品は、"performance"ではなく"composition"である。8曲すべてをそれなりに聴いてみればわかることだが、ブラクストンはそれぞれの作品について、事前にかなり綿密な計画(つまり作曲)をしていることがわかる。ましてや(もはや言及する価値もないのだが)無茶苦茶に演奏してできるほど生半可なものではない。その意味で、この作品で聴かれるブラクストンのアルトは、同じアルトでも阿部薫の一連の作品で聴かれる演奏とは質的に異なる。言うまでもなく阿部のそれは"performance"であり、彼にとっての"composition"は楽器を口にして演奏するその瞬間に行われるものだ。

しかしながら、それらが結果的に同じ音楽である様に聴こえてしまうところに、もうひとつの誤解と不幸がある。実は、最近会ったある人が、阿部とブラクストンを全く同列に挙げて、あんな音楽は聴くべきでない的な発言されたのを目の当たりにして、僕はあらためてそういう認識の人が多いのだなと思った次第なのである。その人との出会いは素晴らしかったが、その台詞だけはいただけないと思った。

この作品を「無茶苦茶な演奏の記録」とするのはもちろん、阿部の作品に対するものの様に「溢れ出す(あるいはほとばしる)激しく狂わしいエモーション」などと考えるのは、やはり少しお門違いだと思う。断っておくが、僕は阿部とブラクストンのどちらが良い悪いということを言うつもりは全くない。それらはまったく異質のものであり、ある意味では異なる聴き方が必要になるのかもしれない。

ここに収録された音楽は、もちろん一音一音記譜されたものではない。彼は記譜の代わりに録音という手段を選んだだけなのだが、あくまでもいろいろな人に繰り替えし聴かれることで、自らの音楽的考えを伝えようとした作品に他ならない。8曲すべての作品に、非常に様々な音楽的アイデアやアルトサックスの技巧が盛り込まれている。しかもそのすべてが非常に高いレベルの完成度なのである。サックスの演奏を志す人はもちろん、音楽とは何かについて少し深い冒険をしてみようという人にとっては、とても多くの示唆を含んだ作品だと思う。そこにある種の未熟な偏見がつくのが残念でならない。

連休の終わり頃だったか、テレビの報道番組で、チェコのアニメーション映画監督のインタビューが放映されたのを観た。彼のアニメーションは日本のアニメとはかなり指向を異にしたものであり、セル画ベースのものではなく実物のものをコマ録りして動きやスト—リを表現するものだった。生の赤い肉片が床を這って、それがグラスの酒を飲み干したりとか、そういうシュールな表現が部分的に紹介された。

映像自体にも興味は惹かれたが、インタビューで彼が現代の芸術について、特にアーチストサイドに対して放った言葉が非常に印象的だった。「現代のアーティストに足りないものは経験である。彼等はアイデアは豊富だが、それを経験と結びつけることなく、すぐにアイデアとして作品にしようとしているように思える。結果的にそうした作品は単なるアイデアに過ぎず、芸術として必要な素質に欠けたままその多くは社会に埋もれてしまうだけになる。」確かそういった内容だったと記憶している。

僕にはこの「経験」というのが非常に深い概念になっていると感じた。ともすれば単純に「苦労が足りない」という意味に捉えられてしまうかもしれないが、僕が自分の考えていることとあわせて解釈したのは、彼が言いたいのは、実際の経験かどうかというよりも、経験ということについて深く「考える」ということだと思った。そして、良い作品というのはそれを体験する者に自然と促すような仕組みを提供する。

この話には、僕がブラクストンから得たもの、そして彼の音楽について感じることに非常に共通した部分があると思う。そしてブラクストンの音楽について、その経験という視点を最初に気付かせてくれたのが、この「フォー アルト」なのである。この作品はジャズとかそういうジャンルを超えた本当に素晴らしい音楽作品であると同時に、そのインパクトというか手応え(耳応え)も相当なものである。

僕らが日常務めている仕事について、それぞれの人間は皆プロフェッショナルのはずだ。では、日々の業務で営んでいる個々の仕事は、例えばそれが果たして"performance"なのか"composition"なのか、それを明確に答えられる人はいないだろう。それらがどう絡み合っているかを認識し、その複雑な構造に思い当たる人がいるとすれば、それはかなりその仕事にたけた人に違いないと思う。

その意味において音楽家かどうかというのは、もはや問題ではない。逆に言えば、人間の生業の本質とは、ある意味においてそういうものなのだろう。音楽ももちろんその一部である。「無茶苦茶に」とか「適当に」が通用する世界はもちろんあるだろうが、その存在は常に刹那的だ。

長々と変なことを書き連ねてしまったが、僕にとっては結構いろいろな思いのある大切な作品である。いまは非常に入手も容易になっているので、興味をもたれた方でまだ耳にされたことのない方は、是非とも臨んで取組んでみて欲しい音楽だと思う。もちろんある種の心構えは必要かもしれない。しかし、音楽を聴くと言う目的に対して、ある意味これほど純粋な形でそれなりの見返りを出してくれる作品というのも、そうそうあるものではないと思う。

次回は、最近届いたアンソニーの最近の作品を採り上げてみたいと思う。

5/07/2006

カサンドラ=ウィルソン「サンダーバード」

 連休はあっという間に終わってしまった。前半は家でだらだらと過ごし、後半は妻の実家がある広島に行った。ちょっとしたことはいろいろとあったが、時間の流れは慌ただしかった様な印象がある。気がつけばもう休みも終わりかという感じである。後半にちょっと体調を崩しかけたが、まあなんとかそれ以上悪化するのは避けられたようだ。

このところ新しく音楽を購入するのを控えて来た。というのも、海外に発注したいくつかの物件がなかなか納品されず、未着品として滞留してしまったからだ。いずれも組み物で、10枚組と4枚組と、3枚組がそれぞれ1セットずつ。最初の10枚組のものは、3月初旬に予約注文したものなのだけど、先日になってようやく発送の連絡がメールで届いた。4枚組のものは5月の初日に届いたばかり。そんなわけで、これからしばらくの間は納品ラッシュに湧くことになりそうだ。いずれもそれなりの際物であって、楽しみである。

そんな中にあって、唯一日本で購入してしまったのが今回の作品である。カサンドラは女性ジャズヴォーカリスト。スティーヴ=コールマンらを中心とするM-BASEの一派というイメージが強い。前にも書いた様に、僕はスティーヴの音楽にはある時突然目覚めて、ほとんどの作品を持っているのだが、カサンドラは1枚も持っていない。他人からCDを借りて聴いてみて、カッコいいと思ったこともあるのだが、どうしても自分で買って聴くまでには至らなかった。何か不思議な近寄り難さがあった。ヴォーカルものはそのへんの灰汁の強さがストレートに出てしまうようだ。

今回は、先に書いた様な事情もあって、ちょっとした新譜渇望状態におかれていた折りに、たまたま覗いてみたアマゾンのリコメンデーションに現れた本作に、何気にというかある意味素直に興味を惹かれた。試聴してみると、僕が知っているカサンドラの歌声はそのままだったが、どこか難しさよりも懐かしさを漂わせる内容に、知らない間に購入ボタンを押してしまった。さすがはアマゾンで押した翌々日には納品である。

連休中に興味を惹いた変わったものをいくつか書いてみると、広電(広島市内を走る市電)の車内で見かけた女性が履いていたローライズのジーンズが、見るものとしてより履くものとして妙に印象に残ってしまい、あれはなかなかカッコいいものなんだなと(遅まきながら)思ったこと。早速、ネットでいろいろ捜して1本買ってみた。こういう時、お店に出かけなくなった自分がいまや不思議でも何ともないのだが、時代も変わったものだと思う。

そしてもう一つは、ある理由で休日の救急病院というところに、半分酔っぱらった状態であったが、行かざるを得なくなったこと。これは、もちろんあまり好ましいことではないが、新鮮な経験だった。医者の世話になったのはもちろん僕ではなく、少し夜遅くから飲み始めて間もなく胃の痛みを訴えた、広島市内に住む僕の兄を連れて行ったのだ。

夜の10時を回っていたが、来院者の半分以上は子供だった。ほとんどの子は見た目は普通で、パジャマかなにかを着ていて、別になんてことはない様に見えるのだが、親が慌てた様子で「熱がある」とか「発疹がでた」とか「食べたものをモドした」と穏やかではない。大抵は特に大事ではなく、点滴とか投薬をしてもらって、親に手を引かれながらも自分で歩いて帰って行った。

兄は「急性胃炎」と診断され、痛み止めの注射と薬をもらって引き上げた。当然、宴は中止である。僕は独り深夜の市電に乗って、妻の実家に帰った。そういえば僕が昔過ごした和歌山にも、ある時代まで市電があった。夜の市電は、昼間とは違う、また普通の電車ともまったく違う独特の空間がある。暗く重い雰囲気。失敗したデートの反省を促すような雰囲気でもある(よくわからないが)。

さて、カサンドラの音楽はそうした雰囲気とは正反対に、いままでとはかなり趣を変えた陽気さと懐かしさの様なものに満ちた内容になっている。全編に漂うのはアメリカ中西部の空気。冒頭の"go to MEXICO"からそれはたっぷりと満ちている。

CDのライナーには歌詞とクレジットがあるだけだが、彼女のサイトを覗いてみると今回の作品を製作するに当たって、プロデューサーをはじめとするメンバーを一新したことなどが書かれている。また昨年秋にジョニ=ミッチェルへのトリビュートアルバムプロジェクトに参加したことなどにも触れられていて、そのあたりも今回のアルバムへの導線となっているようだ。

随所に聴かれるスライドギターに、ライ=クーダの世界に近いものが感じられる。その効果を全面的にフィーチャーした3曲目の"easy RIDER"はなかなかの大作。5曲目の"red river VALLEY"もカッコいい。今回、カサンドラ自身もアコースティックギターを弾いている。裏ジャケットでキャミソールに姿でウェスタンブーツを履いて、ギターを抱えた彼女の姿が凛々しい。

そしてもう一つ印象的なのはベースライン。2曲目の"closer to YOU"、4曲目の"it would be so EASY"、6曲目"POET"等で聴かれるアコースティックベースは、こういうベースの魅力を存分に伝えてくれる。不思議と夜中の市電にもマッチする。市電の車内は意外にうるさいのだが、これを聴いていると自分がどこか知らないところに向かっているような気分になる。

カサンドラの音楽を聴きながら、不思議なトンネルに入ってそれを抜け出たかの様な連休期間だったわけだが、なんとなくあっけなく過ぎてしまった。もしかしたらいまもまだトンネルの中なのかもしれない、などという想いも抱きつつ、明日からまた仕事である。そういえば休みの間は全くウィスキーを飲まなかった。これからシャワーを浴びて、連休の名残に少しやってみようかなと思う

Cassandra Wilson 公式サイト