8/16/2005

散歩~僕の生まれ育ったところ

 短い夏休み。実家のある和歌山に帰った。親父が数ヶ月前から少し具合を悪くしていて、その様子を見に帰るのが大きな目的だった。そして、親父に代わって祖母のいる実家に出向いて、もう何年も寝たきりになっている祖母のお見舞いにいくこと、お墓の掃除をして祖父の仏壇にお参りをすること、そういった用を済ませているうちに、滞在期間が過ぎてしまうそんな計画の帰省だった。

 親父の様子はちょくちょく電話をして確かめていたので、特に心配するようなところはなかったが、病気のせいで少し痩せたのか、また一段と年をとった印象を受けた。

 到着した翌日、兄と僕の妻の3人で親父の実家に出かけた。僕の実家がある和歌山市から電車で数十分南に下った、有田市というところが目的地である。兄にレンタカーを借りてもらって、自動車での移動ということにした。

 今回わざわざ車を借りて出かけたのには、理由があった。それは、自分たちの生まれ育ったところを訪ねるということだった。父の実家とは少し離れたところに、勤めていた会社の大きな工場があり、それに隣接するかたちで社宅や寮で形成された小さな地区があった。そこが僕の生まれ育ったところである。


 僕はその社宅の町で生まれ、高校2年生の終わりまでをそこで過ごした。そこからいまの実家がある和歌山市に越して以降、僕が自分の生まれ育った場所を訪れたことは一度もなかった。以前から、実家で兄と酒を飲んで話すたびに、この計画が話題になっていた。気がつけば24年間の年月が過ぎていた。今回ようやくそれを実行するときが来たというわけだ。

 僕や僕の妻や僕の兄のように、故郷を出て都会で働く人は多い。故郷に帰ったらそこが生まれ育った場所だという人も多いだろう。一方でまた、生まれて以来その場所から居を移したことがないという人もいるだろう。でも僕の場合は違っていた。

 僕は、途中二度ほど住む社宅を移ったが、17歳までは同じ場所に住んだ。そして次の場所(現在の実家)で大学受験の1年間を過ごしたら大阪の大学に進学し、卒業後はそのまま東京に就職したので、高校卒業以降、結婚するまでの17年間は基本的に独り暮らしが続いた。その間、住む土地は大阪から神奈川になり、住居については6回の引越しを経験した。その意味で、最初の17年間を過ごした場所が、いまのところ僕にとっては一番長く暮らした場所ということができる。正直、愛着はあまりないけど、想い出はいくらでもある。そんな場所だ。

 祖母を見舞い、お墓の掃除やなんかを済ませて、叔母らに見送られて父の実家を後にした僕らは、車を目的地に向けて走らせた。途中までの国道はその後も何度も通過したが、僕の生まれ育った場所へつながる、細い道に入る。24年ぶりということを考えると、ウソではなく胸が高鳴った。

 集落は4階建てで24世帯を収容するアパート8棟と、平屋で小さな庭のついた2軒長屋の住宅およそ20棟からなっていた。あとは小さな商店が3軒程と、風呂のないアパートの人が主に使う共同浴場があり、その界隈の園児が通う小さな幼稚園が一つと、住民の運動会などをするグランド、そして小さな集会場があった。僕も兄もその幼稚園に通い、その集会所で算盤や書道の習い事に通った。

 その道に入って先ず感じたことは、僕の記憶のすべてが子供の目線だったということ。死ぬ思いで自転車をこいで駆け上った坂道は、何てことはない平坦とも思える道だった。そしてその道のなんと狭く見えることか。ほどなくして、僕らの住んでいた社宅が建ち並ぶはずの場所に着いたのだが、そこには野草がボウボウに生えた広場があるだけだった。


 なんとなく話には聞いていたのだが、その草むらは社宅がしばらく前に取り壊された跡だったのだ。車を降りてみると、当時の家々の間にあった路地跡だけを遺して、個建ての社宅と幼稚園、共同浴場などはすべて取り壊されていた。僕らが住んでいた社宅があった場所に立ってみた。とても狭い。ここに庭付きの平屋建てが本当にあったのだろうか。路地も驚くほど狭かった。

 いま見ると決して広いとはいえない跡地から、まだ残っているアパート群が見えた。それらも現在も入居しているのは2棟のみ、残りは入り口を木材で封鎖された格好で廃墟になっていた。アパート群の一画に作られた花壇も、さびた枠だけを残して草がぼうぼうになっていた。それにしても狭くて小さい。


 驚いたのは、その地区の住民を主に相手にしている商店が、いまも細々と営業しているらしいことだった。この日はお盆休みで、どちらの店もシャッターが下がっていたが、自動販売機や店の横に積まれた箱などの様子からして、いまもお店をやっていることは間違いなかった。きっとお店をやっている人も、次の世代に移っているに違いない。


 僕らが通った幼稚園も、ブランコなどの錆びた遊具を残して取り壊されていた。当時、走り回るには十分すぎる広さに思われたその場所も、いま見てみると自分の記憶にある教室や広場や花壇は、本当にここにすべて収まっていたのかと思えるほど、小さい場所だった。園に隣接した集会所だけはかろうじて遺されていたが、習い事をやる教室というより、物置のようにしか見えなかった。


 両親が結婚して新しい生活を始め、僕らを産み育ててくれた場所。いまその頃の両親と同じ年頃になった僕は妻と二人で同じ土地に立っていた。地域にあの頃の活気はもはやなかったけれど、この狭い場所で僕らを育ててくれた両親が、当時肌で感じて考えていたことの一端に触れることができたような気がして、僕は思わず幼稚園の跡地で目を閉じてしまった。

 ありがとう、お父さん、お母さん。

(アパートの脇にあった共同水栓の跡。水を飲んだり、泥んこのクツを洗ったり、水鉄砲に水を入れたり、自転車を洗ったり・・・本当にいろんなことをしました)

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