3/21/2005

阿部薫「Winter 1972」

  久しぶりに阿部薫を聴いてみたくなり、新たにいくつかの音源も仕入れた。今回はそれについて書こう。前回のろぐで書いた「ある人物」は彼のことである。

 僕がはじめて阿部を聴いてから15年が経った。まだ学生の頃、ジャズ批評誌の「これがアルトサックスだ」という特集号で、彼のことが代表作の「なしくずしの死」とともに紹介されていたのを読んで、はじめてその名前を知った。そこに書かれていたことを読んで相当な興味をもったが、いくら中古屋さんを巡っても彼のレコードはまったく見つけることができなかったのだ。それからしばらくして僕が社会人になったばかりの年に、彼の最後の演奏録音とされた「ラストデイト」がCD化され、僕ははじめて彼の演奏を聴くと同時に、その発売を記念して彼の生涯についての文章や写真など、様々な目で見る記録を収録した書籍「阿部薫覚書(1949-1978)」が発刊され、彼の人生や生前の彼に関わった様々な人の思いなどについても、いろいろなことを知ることになった。

 おそらくはそのあたりを契機として、彼の死後十数年を経て再び静かな阿部薫ブームの様なものが世に起こっていたのだと思う。「なしくずしの死」をはじめとする彼の代表作や未発表録音が次々にCD化され、1995年には、阿部が生前親交のあった映画監督若松孝二氏によって、阿部とその妻鈴木いずみの人生を描いた稲葉真弓の小説「エンドレスワルツ」が映画化された。この作品は東京では新宿の劇場で単館上映されたが、観なきゃなあと思っているうちに、あったいう間に上映は終わってしまった。

 阿部の演奏記録は遺されているものの半数以上がソロ・パフォーマンス、残りの多くもデュオであり、そのすべてがフリー・インプロヴィゼーション(即興演奏)である。その内容は「直情的」とでも言えばいいのか、衝動(必ずしも激しいものとは限らない)と音が直接結びついた様な独特の音楽表現である。意図とか狙いとか心づもりとかいったような他人の存在への意識が感じられない、どこまでも「一人称」な音楽なのである。僕はそこが彼の音楽の大きな魅力のように考えている。

 生前のインタビューでも彼自身が語っていることだが、阿部に向けられる世の中の人の関心は、非常に数少ないものではあるが、好きか嫌いかの両極端がはっきりしたものになるようだ。それは、インターネットの時代でも変わらない。掲示板などで彼について書かれたものを覗いてみると、大抵それらが水掛け論のように交錯するばかりという状況になる。それについて考えるとき、僕はいつも音楽を言葉で批評したり表現しようとしたりすることの限界や問題というものを考えさせられる。彼について書くことになんらかのためらいがあるというのも、そのことが要因としてある。

 阿部の代表作「なしくずしの死」は、そのタイトルをフランスの作家セリーヌの作品名から採っており、作品の冒頭にセリーヌの作品の朗読が引用されるなど、なかなか凝った演出になっている。しかも、この作品で一躍有名になった阿部が、わずか2年後に薬物が原因といわれる死を遂げ、作品にプロデュース的に付加されたイメージを地でいく様な事態となって、この作品は収録されている音楽とはある意味無関係なところで、それが阿部のイメージを支配するまでになってしまったようなところがある。この作品をプロデュースした間章の意図は短期的には成功を収めたように思うが、それから(わずかというべきか)四半世紀を経た現在、僕は阿部の音楽にとってそのことがプラスだったのかマイナスだったのか、なんとも複雑な気持ちを抱く。

 阿部の作品が好きで、それについて何か書こうする人の中には、阿部の音楽の魅力をなんとか言語で表現しようと、いろいろと言葉を並べてみたり、哲学や文学など他の芸術にある表現の類似性を並べてみたりする人が見受けられる。彼の生き様を音楽表現にそのまま投射し、それを単純に言葉で表象してしまって阿部の音楽にある種のレッテルを貼ってしまうということも多い。そこには「孤高」「唯一」「絶対」とか「悲劇」「破滅」といった言葉が並ぶ。さらには、阿部に心酔する人の中には、自分自身の生き様を彼の音楽や人生に重ね合わせてしまっているような言動が見られることもしばしばである。

 一方で、阿部が嫌いという人が掲示板などでとる徹底した態度は、阿部の音楽そのものに対して向けられているというよりも、むしろ阿部をそのようにもてはやす人や、その言動に対して向けられている様に思えることが多い。音そのものが不快であるなら、それっきり聴かずに無視すればいいのだが、先の様な何か本質から離れたような、独断的なあるいは威圧的な賞賛が、雑誌の紙面や掲示板に目につくことが不愉快になり、しまいにはこちらの側でも「デタラメ」「下手くそ」さらには「なんの価値もない」というような、空虚な批判が溢れ出す始末である。

 「なしくずしの死」に収録された阿部の演奏は非常な魅力に満ちたものだ。阿部に興味を持つ人なら聴いてみるべき作品だと思う。この演奏の魅力は今後しばらくはそう簡単に色褪せることはないだろう。それは阿部の音楽が本来もつ力だろうと思う。それに対して、この作品に添えられたプロデューサの間章(あいだあきら)の解説は、それを「名解説」と表現した批評家もいたように思うが、いま読んでみるとやはり時代を感じざるを得ない。結局、生き続けるのは音そのものであり、言葉や理屈で音楽を補うのは最初に与える肥料のようなものでしかないのだと思う。

 僕自身も阿部の音楽が好きで聴いてきたわけだが、当初は先の書籍に収録されたいろいろな人の証言がとても参考になった。阿部の音楽そのものをどうこういった評論よりも、彼と直に時代を共にした人たちが語る、彼の人となりとか共に過ごした時の思い出話とか、そういうものの方が、阿部の音楽を受け入れる際にそこに人間味とでもいうか、そういう種類の潤滑剤のような役割を果たしてくれたように思う。

 今回の作品は、阿部薫お得意のアルトサックスによる約50分の演奏が収録されている。元々は1974年頃に海賊盤として出回ったもので、阿部のファンの間ではながらく語り継がれていた作品である。昨年ようやくCD化され、僕も久々に阿部を聴きたくなる気持ちがまた巡ってきたのを機会に、この作品を購入してみた。カセットテープで収録されたといわれる録音なので、音質の点ではやや劣るが、演奏の内容はとても素晴らしい。個人的には「なしくずしの死」よりも彼の魅力がストレートに表現されていると思う。

 僕は阿部に興味を持った人は、是非とも一度は彼の演奏を耳にすることをお勧めしたい。ただし、それはやはりある程度まとまった時間のある状況で、一つのパフォーマンスを通して体験するということである。先ずは書籍でいろいろな人の証言に触れてみるのもいいかもしれない。いまから30年以上も前の時代、1970年代の日本にこんな音楽家がいたのだ。阿部の演奏は十分記録にとどめておく価値があるものだと思う。

Kaoru Abe 奥野氏による阿部薫ファンサイト、阿部に関するだいたいのことはここでわかります。短いですがサウンドサンプルもあります。

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