12/26/2004

DJ KRUSH「寂」

  えぬろぐを1年間続けることができた。前回のろぐのおしまいでこの1年に取りあげてきた作品を振り返ってみたいなことをやろうかと書いたが、過去を振り返るよりも、いま、そしてこれからを見るのがえぬろぐ的ではないかと考え、今回も普通にやってしまおうと思う。生来、年の瀬のそういう雰囲気が好きではなかったから。

 IT関係の仕事をしていると、いやでも世界と日本ということについていろいろな意味で考えさせられる。僕は海外で暮らしたりした経験は無いし、海外に旅行したことは仕事も含めて数回しか無い。その意味では海外経験には乏しい。でも、小学生の高学年になって洋楽を聴き始めてしばらくは、「ちっ、日本人の音楽なんて聴いてられるかよ」という呪いのようなものに長い間悩まされた。ロックでもジャズでもクラシックでも、どうしても邦人アーチストの作品に手が伸びない。それが変わり始めたのは、ある意味ここ数年のことかもしれない。

 いまとなっては呪いは解けた。そして昔のことを少し恥ずかしく思うと同時に、日本にありがちな自虐的な自国観を嫌悪するようになった。20世紀半ばの戦争と敗戦を境に、日本全体がその呪われたような雲に包まれてきたが、21世紀の実感とともにその呪いが解けつつあるように感じる。自分のアイデンティティからは逃れられないし、それを否定しても結局はいいことは少ないのだ。

 DJ KRUSHは日本のヒップホップを代表する演奏家である。年齢は僕より2歳ほど上らしい。彼は既に数枚のリーダー作をリリースし、日本はもちろんのこと世界レベルでの名声を得ている。そのことは彼が作品で共演する様々な大物アーチストの顔ぶれを見れば一目瞭然である。今回の作品は、その彼が2004年にリリースした最新作である。

 この作品では、生の純邦楽演奏が全面的にフィーチャーされている。尺八、三味線、太鼓などである。タワーレコードが発行するフリーペーパに掲載されていたインタビューで、彼は今回の作品の動機についてこう語っている。
「・・・本物のグルーブ感が欲しかったし、いまの自分が海外に行って、冷静に日本の国を見られたりとか、年齢も手伝ってか、伝統的な音楽を改めて聴ける自分が正直にいた。じゃあ、今回は真正面から向き合ってやってみようと。そこでどんな調和がとれるかなって」
(イントキシケイト Vol.52より)

 素晴らしいことだ。結果的に出来上がった作品もとても素晴らしいものになっている。実は、2002年にリリースされた前作「深層」を聴いたとき、正直何かが違っていて、これはもうダメかなと感じたことがあった。同じインタビュー記事に、実は前作から、それまでのサンプラーとリズムマシンを思い切って捨て、すべてコンピュータベースの演奏システムに切り替えたのだと書かれていた。今回の作品は、それが非常にしっかりと彼の持ち味に融合し、そこに新しいうわものとして和楽器をはじめとする日本的なものが上手くのせられてるように聴こえる。これこそオリジナリティであり、日本が世界に誇れるヒップホップであろう。

 内藤忠行によるCDジャケットのアートワークがまたとても素晴らしい。そして作品のタイトルもまた、非常に印象的であり、いまの世相を考えると、非常に象徴的でもある。2005年は平穏な年であることを願わずにはいられない。

 月並みではあるが、えぬろぐを1年間読んでいただいた方々に感謝したい。2005年も気負わずこの調子で続けていければいいと思う。既にもう数作品のエントリーが決まっている。正月に田舎に帰って酒で清め(まあこのところ毎晩なのだが)、少しだけ新たな気分になってまた書き始めようと思う。

DJ KRUSH Official Website 公式サイト
Tadayuki Naitoh Official Website 内藤忠行氏の公式サイト

12/23/2004

ヘンリ=カイザ & ワダダ=レオ=スミス「ヨー マイルス!」

  先の週末はいろいろと用ができてしまい、ちょうど体調も少し崩れかけていたので、ろぐをサボってしまった。幸い悪化には至らず、年内の仕事にもメドがついたので日本では祝日の今日ろぐを書いている。

 東京はこの1週間でようやく冬らしくなった。それでも僕が上京してきた17年前に比べても、まだ暖かいような気がする。「温暖化」は確実に進んでますね。身近にできるところからなんとかしたいとは思うのだけど、電気で音楽なんか聴いてる場合じゃないよと思うのは寂しい。うちは自家用車を持ってないので、あとはせめて燃えるゴミを減らすこと、部屋のなかでもなるべく厚着をすること、こんなことでも続ければ意味はあるだろう。音楽とインターネットはその分ご勘弁願いたいところだ。

 音楽を聴いて暖まるという効果はどの程度期待できるのか。音楽暖房(または冷房)という新しい概念でも提唱するひとがそのうち出てくるかもしれない(というか、僕がいま提唱したのかもしれない)。季節や曜日、時間などにあった音楽と言う考え方は、別に嫌いではないのだが、結局僕のなかではあまり意味の無いことになっているようだ。真夏の現代音楽、朝の通勤時でのフリージャズ、眠れない夜のヒップホップ、どれもまったくOKである。

 さて、実のところいまだエレキマイルスブームが続いている。マイルスばかりとりあげてもいいのだけど、あまり一人のアーチストに偏るのはえぬろぐ的ではないので、今日はその関連作品として、あまり知られていないかもしれないがとても面白い、そして素晴らしい作品を紹介しよう。

 ギタリストのヘンリ=カイザとトランペット奏者のワダダ=レオ=スミスは、ともにフリーミュージックのシーンで活躍するアーチストである。ともに1970年あたりからシーンに現れ、現在まで様々な作品をリリースしライブ活動も行なっている。僕もそれぞれ個別の作品として、デレク=ベイリーやセシル=テイラー等フリーミュージックの大御所と共演する彼らの演奏をCDで持っている。

 そんな2人が突然タッグを組んで1998年に2枚組のCDを発表した。タイトルは「ヨー マイルス!」。ずばり、1970年代のエレキマイルスに捧げた作品である。内容は完全にエレキマイルスのスタイルそのもので、選曲もご機嫌である。ライナーノートを読んでみて驚くのは、彼らがいかにこの時代のマイルスを敬愛し、その音楽を研究していたかということである。エレキマイルスをフリージャズへのアンチテーゼのように言う人もいるが、そこは反動とかそういうことよりも、素直に時代に流れとして連続したものとして受け入れたいと思う。彼らもまさにその通りで、そこはフリーミュージックの中核を担うアーチストとして真摯な姿勢がうれしい。

 ゲストミュージシャンとして、なんとローヴァサクソフォンカルテットのメンバーも参加。あの「アガルタ」のテーマをブラスアンサンブルでやってしまうのだから、これはもうカッコ良くないはずがない。2枚合わせて160分近いこの作品を、MP3プレーヤに入れて聴きまくる毎日、これで健康になること請け合いである。聴きながら思うのは、僕もこういうセッションがしてみたい!ということだ。リズムを受持つ身としても、ソロを受持つ身としても、そして演奏を聴く身としても、こんなに自由でエキサイティングで楽しい音楽セッションはないだろう。

  このセッションは彼らにとってもお気に入りだったようで、そしておそらくはビジネスとしてもいい実入りになるのだろう。なにせ、フリーミュージックのインディーズ作品なんて、1タイトルあたり世界で3000枚も売れればいい方という世界だ。それに比べればこの内容なら、とりあえず聴いてみようかなと言う人だけでも世界で1万人はくだらないはず。2004年になって、おなじコンセプトでの続編「ヨー マイルス!スカイガーデン」(写真右)が発売され、一層パワーアップした演奏が楽しめる。もちろんローヴァも再びゲストで参上している。そして2005年早々にはさらにもう1作品発売されるそうである。

 僕の嫌いな師走の喧噪を吹き飛ばすちょうどいい作品が見つかって、気持ちよい年越しになりそうである。気がつけば年内に書くろぐも残すところ今回を含めてあと2回となった。次回には、この1年間で取りあげた作品をもう一度振り返ってみたいと思っている。

Homepage of Ishmael Wadada Leo Smith ワダダ=レオ=スミス公式サイト
henry kaiser : the official website ヘンリ=カイザ公式サイト
どちらも充実の内容です。レコード会社や事務所が作るおざなりサイトとは異なる、とてもミュージシャンらしい、そしてインターネットらしい、素晴らしいサイトですよ。

12/12/2004

ローヴァ1995「ジョン コルトレーンズ アセンション」

  前回前々回とマイルス=デイヴィスがいわゆる電化という大変革を遂げた時期の作品を取り上げた。結局、ほぼ2週間にわたって僕は持っているほとんどすべてのエレキマイルス作品を通勤の行き帰りに繰り返し聴いた。それぞれの作品はどれもそれなりに聴きどころを持ったものばかりだったが、やはり「ビッチズ ブリュー」のずば抜けて高い完成度をあらためて確認したというところで落ち着いた。本当はこの流れでもう1枚とりあげたい作品があったのだが、それは次のマイルスブームの時までとっておくことにしようと思う。

 マイルスのような長きに亘ってジャズの第一線であり続けたアーチストには、それこそいくつかの転換点があるわけだが、「ビッチズ ブリュー」が最も大きなそれであることには、多くの人が同意することと思う。転換点は常に大きな変化、それも非連続的か時に破壊的ともいえる変化を伴うことを意味するわけで、そこには幸せと同じかそれ以上の不幸せがある。歓迎する人の一方で、ついていけなくなる人、快く思わない人も必ずそこにいる。それが転換点の実現を難しくしている大きな理由でもある。

 今回はその「転換点つながり」で、僕が最も敬愛する音楽家、ジョン=コルトレーンの音楽人生における最大の転換点となった作品を取り上げてみようと思う。コルトレーンについては、以前にもこのろぐで取り上げており、つい熱くなって長々と書いてしまった思い出がある。そこで彼の音楽キャリアの4つの頂点ということを書いた。マイルスの「電化」に相当するコルトレーンのそれは「フリー」である。その幕開けとなった作品が、1965年に発表された作品「アセンション」である。

 両者の転換点に共通するのは、それを「音楽人生における事実上の終わり」と見なす人が少なからず存在するということである。つまり彼等にとってはコルトレーンもマイルスもその転換点をもって音楽的自殺を図ったというわけである。

 「さてと、飯も食ったし、飲みながらコルトレーンでも聴くかい?」
 「おっ、いいねいいね」
 「何がいいかなあ」
 「うーん、なんでもいいよ、『アセンション』以外なら・・・」

 僕自身以前にどこかで聴いた様な会話である。ここで「アセンション以外」という意味は、アセンション以降のすべての作品ということを意味しているのは明らかだ。彼等にとってはアセンション以降のコルトレーンは存在しないのである。まあファンというのはそういうものである。

 よく考えてみると、ジャズの世界ではマイルスとコルトレーン以外には、こうした破壊的転換点を持っている巨人は意外にいないかもしれない。ビル=エヴァンスもソニー=ロリンズもそしてデューク=エリントンも、音楽性こそ少しずつ変化していったが、これほどまでに断層的な変化を遂げたわけではない。従来のリスナーに受け入れがたいのは、音楽性が大きく変わったことももちろんだが、それを実現するためにグループの編成が大きく変わったことが承服しがたい要因だったりする。やることが変わる、そしてメンバも変わる。そこでバンドの音楽との接点がうすくなり、ついていけなくなる人が出る。別に音楽の世界に限った話ではない。

 コルトレーンはこの作品で、長年続いた「黄金のクゥアルテット」に、当時の新潮流であったフリージャズで頭角をあらわしていた6人の若手演奏家を加え、さらに土台を強固にする目的でベースをもう1人加えた11人編成で演奏に臨んだ。演奏の内容に関して、それだけの大編成で無茶苦茶な音の洪水を生み出しているという、いかにもうるさい音楽であるかのようなことを書いてあるのを見かけるが、それはあまり正当な表現ではない。

 「アセンション(Ascension)」とは、聖書における「神の降臨」を意味する言葉である。日本で最初に発売された当時に付けられた邦題は「神の園」だった。ここではコルトレーンや他の演奏家が神というわけではなく、フリージャズに表象されるこうした新しい状況をもたらしてくれた力を神と考え、その降臨(つまりは到来)を迎え讃える演奏ということが意図されていると考えるのが正しいだろう。

 作品は冒頭の神の光が雲の隙間から洩れてくるような印象的なイントロに始まり(このイントロだけを知っている人は多い)、その降臨を讃えるようなアンサンブルが全員で演奏され、続いて各メンバーが個別に賛辞を表し、その合間に再びアンサンブルを全員で演奏するということを繰返しながら進んでいく。このアンサンブルの部分が、楽譜の存在を意識させつつも、そこは新しい音楽の表彰としてフリー特有の混沌とした雰囲気で演奏されるので、聴くものはそこにとてつもない魅力的な力を感じるか、恐れをなして単にうるさいと感じるかというふうになるのだろう。

 この作品は、コルトレーンの「フリージャズ宣言」として、ジャズシーンに衝撃を与えることになり、折しも高まりつつあった公民権運動などとも結びついて、ジャズは黒人の芸術として政治的な世界に巻き込まれてゆくことになった。コルトレーンは1967年に世を去り、1968年のキング牧師暗殺事件で頂点に達していた黒人運動は急激に失速、同時にフリージャズも米国での活動の機会が狭まるなかで方向性を見失い、米国内での音楽はヒッピー文化を基盤とするロックに移行していき、ジャズの魂は欧州に亡命することになった。アセンションは評論家や研究家が歴史学的に取りあげて云々する象徴的な存在になってしまい、作品の演奏内容を顧みる人はいなくなった。

 そのアセンションの誕生から30年を経た1995年に、少し前にこのろぐでとりあげたローヴァ サキソフォン クゥアルテットが中心になって、なんとこの作品を再びこの世によみがえらせるコンサートがアメリカで行われたのである。今回の作品はその時の模様を収録したライブアルバムである。僕自身、前のろぐを書いた際に、彼等のウェブサイトを調べている時にはじめてこの作品の存在を知り、さっそくCDを取り寄せたのである。コルトレーンのアセンションはやはり僕の家でも押し入れに格納されてしまっていた。

 聴いてみて驚いたのは、この演奏が30年前のオリジナル演奏とまったく同じ編成で演奏され、構成も非常に原曲に忠実なものとなっていることだ。当然だが、リード楽器の演奏技量は30年前に比較して全体的に向上していて、それはもう凄まじいソロが次々に展開する豪華な内容になっている。僕は時間を忘れて聴き惚れてしまった。さっそく長らくしまっていたオリジナルのCDを取り出して、そこに収録されている2種類のテイクと、今回の現代版をあわせた3種類のアセンションを、それぞれ数回ずつ楽しんだ。この週末は予期せぬ神の降臨に、僕の耳は一足早いにぎやかな(?)クリスマスとなった。

  マイルス時にも似た様なことを書いたことだが、新しいものが生まれつつあった激動の転換点に渦巻くエネルギーという意味で、やはり1965年のオリジナル演奏には独特のテンションとパワーがみなぎっていることがあらためて感じられて良かった。もしかしたら、再び聴くことはなかった可能性もあったこの作品を、ローヴァは自身の演奏で再現し、聴くものをもう一度再びオリジナルの演奏にまで引き合わせてくれた。こういう温故知新的な役割はなかなか果たせるものではない。感謝である。このエネルギーを忘れて無駄にしたくはないと思う。転換点とは自らつくりだすものである。(写真右はジョン=コルトレーンの「アセンション」)

12/04/2004

マイルス=デイヴィス「ビッチズ ブリュー」

  前回取り上げたマイルスのDVDを観て以降、いわゆるエレキマイルスを聴きたいという気持ちが止まらない。この1週間というもの、僕の耳はその関連の音源で見事に埋め尽くされた。おかげで気分的にもとても調子がいい。というわけで、今回もマイルスをとりあげる。

 この作品のことは随分以前から知っていた。音楽にまだそれほど興味はなかった小学生の頃、兄の買ったオーディオ雑誌を見ていたら「音の良いレコードベスト○○」なる企画があって、そこにこの作品が紹介されていた。本だからもちろん音が聞こえるわけではないのに、僕の印象に強く残ったのはそのジャケットである。なんとも異様なそのジャケットを一目見たくて、田舎のレコード屋さんに行ってみた。もちろん僕がジャズのコーナーを見たのはその時がはじめてである。当時はもちろんLPレコードの時代だから、このジャケットの迫力は相当なものだった。一体どんな音楽が入っているのか。僕が実際に中身を耳にしたのは、それから10年近く経った大学生になってからのことだった。

 音楽の演奏仲間でコレクター仲間でもあった友人が、これを買ったというので感想を訊ねてみると返ってきた答えが「異様!異様!僕にはわからん。とにかく気持ち悪い」というものだった。さっそく彼に頼み込んでレコードを貸してもらい聴いてみた。子供の頃どきどきしたあのジャケットを手に、僕はそのとき初めて耳にしたこの音楽に素直に感動してしまったのを憶えている。「異様っておまえ、全然ちゃうやん、めっちゃええやんか〜!」と、僕はもう夜中だというのに彼にすぐ電話したものである。

 この作品はジャズトランペットの帝王といわれたマイルス=デイヴィスが、1969年に長い音楽キャリアのなかで最も大きな転換を宣言した作品である。前回のろぐで紹介したように、それは「電化」つまりエレキギターやエレキピアノなどの電子楽器の本格的に導入したことと、ロックやアフリカ民族音楽のリズムを導入していわゆる「4ビート」とは決裂したことである。ジャズの帝王マイルスが示したこの大変貌はさまざまな議論を巻き起こしたが、結果的にこの作品は1970年代以降の音楽の方向性を示すことになった。別の言い方をすれば、この作品を境に音楽の中でジャンルを云々することの意味が徐々になくなりはじめ、30年以上経た現代においてもそれは変わっていない。

 ただそうしたクリエイティブの側面で音楽が高度になる一方で、音楽の世界にももたらされた商業主義がその内容を均質的画一的なものにすることで、ある種の中和的作用が働いているといってもいいかもしれない。その意味ではこの作品などは、かなりクリエイティブの最前線から生まれたエキスが一杯の内容だけに、いまこれを聴いても何ら古さや陳腐さを感じさせないところが凄いところである。

 LPまたはCD2枚に全6曲、比較的長い演奏の曲が中心だが、やはり1曲目の「ファラオズ ダンス」から最後の「サンクチュアリ」までを順番に通して聴くことで、その魅力が存分に堪能できる。一言でいってしまえば、音楽の中心がリズムに移ったことをはっきりと示していると思う。それまでのジャズに聴かれた、トランペットやサックス、ピアノなどのリード楽器によるソロ演奏は影をひそめ、誰が主役ともわからぬ混然とした演奏のなかで、リズムが聴くものをどんどん音楽のなかにひき込んでいく。最後の「サンクチュアリ(聖域)」では、荒れ狂うジャック=ディジョネットを中心とするリズム世界の中心で、ジャングル大帝のように帝王のトランペットがウェイン=ショーターのサックスを従えて遠吠えの様なテーマを、高らかに歌い上げる。ここは圧巻でもう鳥肌ものである。

 CDショップでマイルスのコーナーを眺めてみると、この作品が製作された前後の未発表音源を含めたCD4枚組のボックスセットの存在が目に入る。実は僕もこのセットを持っていて(これは僕が1998年に米アマゾンで一番最初に購入した商品でああった)、それまで持っていた2枚組のCDは中古屋に売ってしまった。マイルスの関連では、最近コロンビアレコードがこの手の企画を推進中で、他にも同様のボックスセットが数種類発売されている。

 しかし、僕の経験から言わせてもらうと、こうしたセットにはあまり手を出さない方がいい。ライブの未発表音源などは、まだそれなりの価値があるとは思うのだが、スタジオセッションの未発表テイクというものについては、やはり未発表になったそれなりの理由があるのだから。当時のプロデューサの意図を安易に乱すものではない。はっきり言って他に収録されている演奏は、ちょうど死んだ作家の全集などで、遺された小説のためのメモやスケッチといった類いと同じもので、グリコのおまけ程度のものである。もちろんレベルは高いのだが、別に「貴重な」とか言って恩着せがましく売りつけるものではないだろう。

 やはりクリエイティブとビジネスの結びつきがお互いを高めるのは難しい。これまではビジネスが社会を引っ張ってきたが、その状況は変わりつつある。いまの時代にこの作品が放つものをあらためて聴いてみて、僕はやはり強くそう感じた。

 ともかくまだ聴いたことのないという人には、ぜひとも聴いていただきたい作品である。もちろんある程度気持ちの余裕がないと受け入れるのは困難ではあるが。それは文学や映画の大作と同じことだ。そのための1時間半は決して無駄ではないと思う。