9/26/2004

海童道宗祖「海童道<法竹>」

  あまり歳の話をしてもしょうがいないのだが、何人かの人から「40歳になった感想は?」と聞かれる。なる前は、40歳といえばもう立派な中年の仲間入りだなあとか、そんなことばかり考えていて、もう開き直りというか諦観というかそういう気持ちになるのかな、とか思っていた。

 実際になってみると、相変わらず人生は楽ではないが、これからの展開が楽しみになるというか、まだやっていない様々なことに対する意欲が増々強くなる一方、確実に迫りくる年齢的な限界が意識されて、ある種の焦りというか急がねばという想いがどことなく感じられる。要はまだまだ未熟であるということであって、とても開き直れるような気分ではないようだ。偶然、近所を歩いていて新築住宅のモデルルームを内覧した。家を買うのは経済的には厳しいと思う一方で、「生活の基盤」ということが意識された体験だった。基盤という言葉の意味するものは、仕事だったりパートナーであったりおカネだったりと様々だが、住居というのはやはりその一つにあたる様な気がした。これが贅沢な話になってしまう国はやはり不幸である。

 音楽については、これからもいままでとあまり変わらないと思う。深さも広さもまだまだだが、やり方だけはともかく自分にとってそれなりのものになっているということなのか。やはり自分には音楽だ、これは変わりそうにない。今回は音楽ネタに戻って、40歳になって最初に購入したCDをとりあげようと思う。昨日はじめて聴いて強い感銘を受けた作品だ。作品のタイトルは「わたづみどう<ほっちく>」と読み、ジャンルはいわゆる「純邦楽」である。

 この海童道宗祖(のちに海童道祖となる)という方は大変な人である。いわゆる禅の道における尺八演奏の名実共に頂点に達していながら、伝統に安住するよりもさらなる探求を選び、自らその地位を辞して新たな道を創り進んだのである。その新しい道が「海童道」というものである。その心は有でもなく無でもなく云々となるのだが、詳しくは彼について書かれたものや、彼自身の言葉を綴ったものを参照していただくとしていただきたい。

 参考までに、先のろぐでも触れた作曲家の武満徹の対談集「ひとつの音に世界を聴く」(晶文社)に、海童道宗祖と武満そしてジョン=ケージによる鼎談が収録されていて、僕はここで彼の考え方の一端に触れた。この鼎談は40年近く前に行われたものだが、音楽という観点よりも生き方という意味で、現代の僕たちに対して非常に重要な深い示唆を与えてくれている内容だと思う。興味のある方は是非とも読んでいただきたい。言葉と同時に発せられる鮮烈なインスピレーションが強烈だ。一カ所だけ引用しておく。

「伝統という言葉は怪物で、これはいやな言葉です。なんでも伝統という言葉でごまかし、それで生きている人が多いのには驚かされてしまいます。伝統ということでなく、現実に見て、現実に聞いて、そこから精進がはじまらなければウソだと思うのです。また批評家の批評を聞いてみてもおかしいのです。自分ではなにも修行しない人が、他人の批評だけはびしびしやる。これも間違いです。経験せずして他の経験がわかるはずはないのです。」


 海童道における楽器を意味する「法竹」(のちには単に道具と呼ばれるようになる)という考え方もユニークである。法竹は楽器ではないという意味は、それが何か特別なものではなく、自然に存在するそのままの竹であるという意味で、実際、ここで彼が演奏(これも吹定(すいじょう)という)しているのは、物干竿を切ったものや、傍に捨てられていた竹を適当な長さに切って、適当に穴をあけただけのものらしい。それも尺八のように楽器職人が作ったとなると、誰のそして何のための芸術かが不明確になるので、その辺の子供にやらせたりしている。彼はこのような法竹を、何百と持っており、そのときの思いや表現に応じて使い分けているようだ。

 実際に演奏を聴いてみて、先ずこのことに一番驚かされる。これが特別になんの調整もしていない竹筒を吹いて出る演奏なのか。彼の言いたいことの一つはそれだろう。人は常に安全牌をはっている。生業の至らぬところを、他人だったり道具だったりと他の何かの所為にする。彼はそれを明確に否定している。逆に至らぬもの不完全なものの良さを引き出しているようにさえ思えるのだ。そのために、つまりただの竹筒を鳴らすために、彼が体得した業はなみなみならぬものがあるはずだ。

 このCDを探すのに、都内の大きなCD屋さん数件を歩いてみたが、純邦楽という領域がおかれている状況は極端に厳しいといわざるを得ない。それは、単に売り場が小さいあるいはほとんどないということだけでなく、かろうじて売られている内容に、この領域の将来が感じられないことである。僕自身、伝統ということはあまり好きではない。それでも今回の作品の様な歴史上の重要記録を次の世代に伝え、新しい発展の礎にすることは必要なはずなのだが、売り場に並んでいる内容にはそれが感じられない、これはなぜなのか。しかもそれは決して売り場の責任だけではないように思えた。そのことはある意味、現代音楽やフリージャズよりも深刻な事態であると感じた。

 このCDは、1968年発売のLPレコードをCD化したもので、2000年に発売され即座に完売となったらしい。それが2003年に1000部限定で再発され、現在そのデッドストックが一部の専門店中心に流通している。そのためなかなか入手は難しいが、それでも9/24時点では都内のディスクユニオン(僕が見たのは渋谷ジャズ館)でまだ見かけた。地方の方は同社の通信販売でも入手できるようなので、お早めに。

 今回、本作と同時に、日本の現代尺八を牽引する人でこの海童道宗祖にも師事した、尺八演奏家の横山勝也のCDも購入したのだが。これはかつて日本のレコード会社がLP化したものを、ドイツの現代音楽レーベルWERGO社が販売権を買い取り、CD化したものだった。もちろん内容は素晴らしいものであり、尺八の歴史上極めて重要な作品となるはずなのだが、国内での販売権を所有するレコード会社から、CD化される話はないようだ。寂しいことである。昨今のコマーシャルな邦楽ブーム(東儀秀樹や吉田兄弟など)は、一過性の部分ではすでに終息したようだが、その中に何か確実な芽生えがあることを願いたい。

 なかなかいいタイミングで、素晴らしい作品に出会うことができた。

「尺八を越えて」 尺八吹奏研究会インターネット会報に掲載された海童道宗祖自身の寄稿
アンドレイ=タルコフスキー「サクリファイス」 シアターイメージフォーラムで開催されたタルコフスキー映画祭での作品紹介、悩める主人公が海童道宗祖の演奏レコードに陶酔することで有名

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