12/09/2017

谷崎潤一郎「陰翳礼讃」

寒くなりましたね。

谷崎潤一郎のエッセイ「陰翳礼讃」を読みました。チベット旅行記を読み終えた時におすすめで出てきていたもの。たぶん、和辻哲郎とかをKindleに入れていることも関係あるのだと思います。

僕は彼の小説を読んだことがありませんでしたが、この作品はエッセイで、しかもテーマが日常のなかに垣間見る日本文化なので、彼の表現はある意味でストレートですんなり心に入ってきました。

内容はタイトル通り、日本文化の特徴である陰翳(いんえい)について、急速に西洋文化に染まる当時の日本の状況の中で、いま一度その素晴らしさと起源を考えてみようというものです。

やっぱりこの時代の芸術は表現が豊かです。20世紀前半はそれまでの文化がある意味でのピークを迎えて百花繚乱となった時代だったのでしょう。もちろん分野や地域によっていろいろな違いはありますが。

その頂点が戦争の影響を起爆剤に、しかしあくまでもそれ自体が内在していたエネルギーによって自爆を起こして、一旦リセットされてしまったのが20世紀後半の出来事だったと思います。

現代も文章による表現は盛んですが、やはり描写などの技術はこの時代のものに比較すればシンプルなものです。そこには表現技巧を楽しむという要素は薄く、やはり書かれている内容そのものに対する興味が中心です。

昨夜、妻と夕飯で安い白ワインを飲みながら話して考えたのは、もし文芸が書道と融合するかたちで進化していたら、ということでした。

いまほとんどの文章表現は活字により現わされます。枕草子も芥川も村上春樹もドストエフスキーもプログラミング入門も、皆同じ活字です。この文章表現をこう言う書体(人の手によるもの)で表現するという習慣はありません。

一方、音楽には「音色」という要素があります。見過ごされがちですが非常に大事な要素です。僕がよく聴いている即興系の音楽では音色表現のウェイトはとても大きいです。

それはわざと変な弾き方をしてノイジーな音を出すということ(僕はあまり好きではありませんが)ではなく、一番シンプルにその楽器本来の出る音の素晴らしさがあれば、ただドレミファソラシドを弾き続けるだけでもそれは聴き応えのある芸術になると思ってます。

音色による表現と演奏技巧による表現は境目は極めて曖昧であります。ピアノのような楽器でさえそういうものだと思います。

しかし文学にはそういう習慣は初期の段階で失われてしまいました。作者のオリジナル原稿で読みたいとそれを求める人はいません。あるいは、著名な書家が有名な文芸作品の全編を書き記した版というのもありません。

谷崎のこの作品を読みながら、その内容と同時に彼の文章表現も併せて楽しむうちに、ふとこの原稿のオリジナルを読んでみたいという想いに駆られました。

1933年の雑誌連載をまとめたものだそうで、いまの日本語に比べるとかなり古い文字使いや言い回しもありますが、比較的読みやすい内容だと思います。

もちろん無料で読めます。無料の本だけで十分今後の読書を楽しめるだろうなと思ってます。いまは読み終わってからおすすめで出てきた別の本を読んでます。すっかり読書習慣がつきました。Kindleは素晴らしいです。


(おまけ)

仕事で出かけた帰りに歩いた東麻布の路地裏からの風景。


家路に少し歩こうと桜木町で電車を降りて横浜スタジアムを通りかかったらちょうど改修工事が始まっているところでした。


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