4/23/2007

アンドリュー=ヒル「ポイント オブ ディパーチュア」

 先週の金曜日にまた仕事を休ませてもらい、再び和歌山に親父を見舞いに行った。病気が進むとともに肉体的な苦しみとは別に、深い心理的な葛藤に襲われてかなり混乱しているとの話が叔母からあり、これはさすがに彼女だけに続けて看病をお願いしておくわけにはいかないなと考えた。

金曜日の朝、僕が川崎を発つ直前に叔母からかかって来た電話では、その前の夜における父の荒れようは相当なものだったらしい。これはもう限界だ。その夜は僕が病室に泊まり、その翌日は幸運にも仕事の都合がついた兄も来られることになり、彼に替わってもらうという段取りになった。

僕自身も明らかに少し体調が悪いのを感じていたが、それでも夕方には病院に到着してさっそく病室に向かった。部屋は既に個室に移っていた。一週間前に比べて、やはりまた少し痩せたのは明らかだった。自分たち家族に会うことが、父にどういう精神的作用を及ぼすのか、期待と不安が入り混じりながら部屋に入った。

親父はベッドにごろんと横になって天井を見つめていたが、僕を見るなり表れた表情に、幸いにも短期的には僕の訪問は非常にいい方向に作用したことを感じた。叔母から聞いていたその日の朝までの様子は一変したようだった。そのことは、部屋に来てくれる看護士さんたちの様子からもはっきりとわかった。僕は内心やれやれと苦笑いするしかなかったが、まあそんなことを特に意識することもないように振舞うしかなかったし、それが一番自然だと思った。

担当の看護士さんに促されて、病院から歩いて5分ほどのところにあるラーメン店「まるやま」にラーメンを買いに行き、病室で親父と2人で食べた。もうもうと湯気をあげるラーメンを見て「こんなにようけ食われへん」(こんなにたくさんは食べられない)と言っていたが、それでもお椀に取りながら半分を食べてしまった。さすがに味が濃厚なのでこれ以上食べさせてはいかんと思い、そこまでにしてもらったのだが、親父は久しぶりのラーメンに満足したようだった。

病院で一夜を過ごすのは僕にとって初めての経験だった。考えてみれば母親が入院してそこで命を終えた時でさえ、僕は病院に泊まることは一度もなかった。そういうことはすべて父がやってくれていたからだ。精神的にも落ち着き、おなかも満足した父は、昨夜あまり眠っていないせいもあって、すぐに眠くなったようだ。疲れていた僕も早く横になりたかったので、夜の8時は早くも消灯となった。

病室の付き添い用に用意されたソファーベッドが最悪の代物で、寝心地はとてもいいとはいえなかったが、消灯してからも少し親父と話をしたり、時折求めてくる飲み物を飲ませてあげたり、夜中に一度排泄の処理ついでに看護士さんに来てもらって身体を拭いてもらったりするのを手伝ったりしながら、一夜は過ぎた。午前2時半に時計を見たのを最後に、気がつくと朝の6時半になっていた。

結局、その日土曜日の昼には僕の妻も来てくれ、夕方には兄も到着して、親父にとってはまた寛いだ週末になったことと思う。兄も見るからに調子が悪そうだったが、我慢して病室の寝心地の悪いソファーベッドで一夜を過ごした。日曜日に僕らが帰るときには、少し疲れたような寂しいようなそんな表情にも見えた。その日は叔母にも来てもらわずに一人で寝るといっていたが、その後どういう展開になっているのかいろいろな意味で気がかりである。

叔母から聞いている父の入院中の行状は、確かに理解しがたい部分もあるが、いろいろな事情や状況を考えてみると、僕にはそれがあながち不可解で不条理な出来事であるとは思えいなと考えるようになった。詳しいことは、またいずれ書く機会があるだろうと思う。でも、そのことから僕自身が自分の中で自覚したり確認したりすることはたくさんある。

ジャズピアニストのアンドリュー=ヒルが亡くなったそうだ。75歳で死因は肺がんだったらしい。今回の作品は彼が1964年にブルーノートに録音した代表作である。タイトルの意味は彼の音楽的キャリアの新たな展開を示唆するものであるが、それから42年後の今日が文字通り彼にとっての「出発点」になった。この作品に収録されたジャズの先進性は、いま聴いてもあまりにも斬新である。この音楽的輝きが失われることは当分ないだろう。

ヒルが僕の父と同じ歳だったことは、彼の訃報にふれた今日まで知らなかった。そして、今回の作品が録音されたと同じ年に僕は生まれた。その時、アンドリューや僕の父は33歳だったことになる。

父には少しでも長く生きていて欲しい。そして、少しでも長くそばにいてあげたいと思う。

4/15/2007

再び和歌山へ

親父の様子を見に週の半ばの水曜日から3日間の休暇をもらい、再び和歌山に帰った。最初の2日間は、兄と僕の妻も一緒だった。それぞれ忙しいなかではあるが、なんとか時間をつくって集まることができた。結局僕は土曜日の夕方まで4日間を親父と一緒に病院で過ごした。

滞在中、特に前半は概ね非常に良好な時間を過ごすことができた。兄が一晩病室に泊まり付き添った。状態が良好なので主治医から久しぶりに入浴の許可が出て、看護の人に手伝ってもらいながら、兄が(おそらく三十数年ぶりに)親父の背中を流したりもした。風呂から上がって「最高のリラクゼーションや」と喜ぶ父の姿は、本当に微笑ましいものだった。

僕も食事や排泄の世話をしながら、調子がいいときはいろいろな話をした。3日目の午前中などは、和歌山県の現状と将来について僕の知らない知識をいろいろと披露しながら、1時間にわたって熱く語り続けた。その内容や語り口は非常にしっかりしたもので、叔母から聞いていた数日前までの様子がうその様だった。途中で少し顔を出した叔母は、もりもりと食事をする親父の様子に「狐につままれたみたいや」と驚いていた。

親父の様子は簡単に言うなら、体調としては深刻な病気を抱えながらも、僕達が訪ねた時点では思ったより落ち着いていた。その一方で、精神的な状態が非常に不安定になっていて、そのことが原因でいろいろな問題を引き起こしている様だった。父はある意味で自分の考え方ややり方に固執しがちな性分で、かなり神経質なところがある。人付き合いをするうえでは、その深さによってはやや難しい側面を持っている。

僕の滞在期間の後半になって、ちょっとした体調の変化やいくつかの些細な要因も重なって、その精神的なバランスが一気に崩れてしまった。それを理解するのはかなり難しい。看護や医師など病院の人にはもちろん、兄や叔母でさえ理解できないと嘆くこともある。それは僕も同じだが、この4日間で親父の心に少し近づくことができたという実感は持っている。不安定さを露呈した状態の父を残して、和歌山を離れることにはかなり抵抗があったが、それでも僕は川崎に戻り、できるだけいつもと同じように日曜日を妻と一緒に過ごした。

入院して医師の治療を受けたり、看護の人たちのお世話になるというのは、ある意味特殊な状況下で人間の信頼関係を築いてそれを維持してなければならないことである。しかし、そうした人々の努力にかかわらず、患者側はもちろん、提供されるサービスの側にもいろいろな見込み違いや不行き届きな部分―ある意味人間的部分と言ってもいいかもしれない―が出てくるのはやむをえない。そして、そうしたことにはお構いなく、病気はそれ自身の時間軸を持って活動を続けてゆく。

いまはあまり詳しく書くことはできないが、親父という人間のこと、癌という病気のこと、病院という仕組みのこと、そしてそれを見守る僕たち家族のこと、本当にいろいろなことを考えながら時間を過ごしている。僕が家に帰ってきた今日も、夕方になって病院で騒動が持ち上がり、家族としての判断を求められて電話で兄と話し合うなどあわただしい状況が続いている。

滞在中には、親父のこと以外にもいろいろな出来事があった。小学生からの旧友との和歌山市内でのひと時、まったくの偶然でもたらされた二十数年ぶりの従妹との再会、病院近くにある老舗ラーメン店など、それは親父のことがきっかけで僕にもたらされた日頃離れていた自分のふるさとでの時間でもあった。

父の状況はこれから短期間でさらに目まぐるしい展開が予想される。いまはそれが少しでも父にとってよい結果をもたらしてくれる様に、僕としてできることを考え、行ってあげたいと思う。

4/07/2007

ジョン=ケージ「アトラス エクリプティカリス」

 あっという間に1週間が過ぎた。この間も父親の容態は不安定だった。金曜日の夕方、仕事の出先から叔母に連絡をしてみたところ、あまり芳しくない様子であることを知った。本来なら週末にまた帰ってあげたいところなのだが、どうもこのところの疲れがたまって肉体的とも精神的とも言えぬ、妙な疲労を感じていた。とりあえず実家に戻るのは来週にしてこの週末は自宅で過ごすことにした。

週の始め月曜日に、同じ和歌山出身の旧友と新宿で飯を食った。彼の親父さんもちょうどある病気で入院しており、先日の手術には彼や彼のご家族皆で帰ってあげたのだそうだ。やはり家族からもたらされる作用は、病気の本人にしてみればとても力強いものなのだなと、彼の話を聞きながら、自分達の先週末を思い出してそう感じた。

東京は「花冷え」の1週間だった。それでも週の後半に向け少しずつ暖かさを取り戻し、この週末は過ごしやすい気候になった。「衣替えしなきゃ」と洋服を出し入れする妻を家において、僕は少し街をぶらぶらした。何を考えるともなく、何を探すでもなく。

街は就職で上京した若者を中心ににぎわっていた。景気を反映してか、ここ十年くらいの間で考えると、この時期の東京のにぎわいとしては最も多いような印象を受ける。街中で見かける彼らに自分の同じころの姿を重ねることはなかった。たぶんいまの自分はいまの春に何かの始まりを感じてはいないのだろう。

今回もまたケージの音楽を紹介しておきたい。ケージの全作品を発売することをめざしたシリーズを続けているアメリカのmode recordsから発売されたCD3枚組の作品である。といっても2枚は以前LPで発売されていた作品のCD化で、今回はそこにこれまで未発売だった新しい音源を1枚追加したセットになっている。今回取り上げたいのは、その新しい音源である。

作品名はケージが1961年に作曲した楽曲のタイトルである。これはケージが作曲に際して参照した書籍のタイトルからとったもの。"Atlas Eclipticalis"とは直訳すれば「楕円形の地図」とでもいうことになるが、本の内容は天空に散らばる星々の配列を克明に記した、いわば「星の地図」である。

この作品について書かれたものに、本作品が「星座図を元に作曲された」とするものがあるが、これは実はかなり重大な間違いである。星座は天空の星の配列に人間が勝手な思い込みで、様々なものの姿を見出して作り上げた「人為的」なものである。ケージが参照したのは、そうした人の意思を排した純粋な星の配列であったことは、彼の音楽の根底にある「偶然性」という意味において極めて重要なことである。

この作品はどういう音楽なのか。ケージは星図の任意の場所に幅の狭い五線譜を重ね合わせ、そこに入った星を音符に見立ててそれを写し取ったのである。星の明るさは音の大きさに反映された。そうして写し取った数多くの音列を複数まとめたものを1つのシステムとして、それをオーケストラを構成する86のパート別に分けていったのである。これがこの作品の楽譜である。

ケージはこの作品の演奏について、それらのパートをいかなる組み合わせで演奏してもよいとしている。つまりフルートのソロ作品として1人でフルートのパートだけを演奏してもいいし、10人のアンサンブルで演奏してもよい。もちろん全パートを同時にオーケストラで演奏してもいい。演奏時間やテンポは特に決められておらず、指揮者あるいは演奏者がそれを決定する。

今回紹介する3枚組CDの、最初の2枚にはこれを10人で演奏した2種類のバージョンが収録されている。そして今回初めてリリースされた音源である3枚目には、全パートをオーケストラで演奏したいわば「完全版」が収録されている。これはケージ自身の監修のもと行われた1988年の演奏を記録したもの。ちょうど僕の心はケージの音楽に傾いていたところに、オーケストラ版を聴いたことがなかったこともあって、今回のセットがリリースされたことはうってつけのタイミングだったわけである。これも何かの「偶然」だろうか。

もう「えぬろぐ」ではよくあることかもしれないが、ここまでの話を読んでいただいた多くの人は「果たしてそれは音楽といえるのか」という疑問を抱くだろうと思う。そしておそらくそれと同時に、実際にそれがどんな音楽(演奏)なのについて、少しは興味をお持ちだろうとも思うのだがいかがだろうか。

この音楽をわかりやすく言うなら、それぞれの音は天空の星のひとつひとつである。そしてその瞬きを表現したものが作品全体ということになる。ケージは必ずしもそういう言い方をしていないが、少ないパートで演奏される場合、それは星があまり見えない空を表しているのかもしれない。そしてオーケストラで演奏される場合は、いわゆる満天の星空を表しているとも考えられる。

星空を見て、そこにどんな音楽を想起するかは個人の自由だ。ある人はホルストの「惑星」を思うかもしれないし、ある人は「星影のステラ」だったり「星に願いを」かもしれない。その音楽が何だって構わないのだが、「星空の音楽」と言った場合、それらの音楽とこの作品は明らかに異なる点が一つある。それはこの作品が実際の星を音符にしているという事実だ。それに対して、ホルストや星影のステラはあくまでも作曲した人の主観的なイメージが反映された音楽に過ぎないのである。音楽としてどちらが自然か、というような議論はもはや意味がないだろう。

初めて耳にした「完全版」の演奏は、まさに「満天の星」であった。僕にとっては非常に感動的なものだった。僕の実家の和歌山でも、相当に山奥の方に行かないとこんな星空は絶対に見えないだろう。そこに僕は、長らく忘れていた星空の本当の姿を「見る」ことができたのである。

おそらくこのつたない文章を読んでいただいて、少しは音楽の様子が想像できる方もいらっしゃると思うのだが、たぶん実際に聴いてみた時の印象はもっと強く明確なものとして伝わってくるのではないかと思う。

この音楽は多分じっくりと傾聴するものというよりも、ある意味それとともにいるという様に楽しむのがいいと思う。大きい音で聴いてもいいし、小さな音で楽しむのもいい。星空の楽しみ方は人それぞれだろうが、無心に星を見つめるのも、その光の配列と流れに任せて何かの思いにふけるのも自由だ。この音楽はそういう楽しみ方を実際に与えてくれるように思える。それは人が勝手にイメージしたものよりも、もっと自然に星空と同じ想いをもたらしてくれる。

これを聴きながら僕が考えたのは、ぼんやりとではあったがやはり父親のことだった。そういえば父も星が好きで、家には僕が幼い頃からビクセンの天体望遠鏡があった。あれはどこにいったのだろう。

Atlas Eclipticalis オランダのケージ研究家 André Chaudron氏の運営するサイトにある、本楽曲の解説(英語)

4/03/2007

紀州の桜

先週末は妻と二人で和歌山に行き、入院中の父を見舞った。土日一泊二日の旅程は、仕事がさほど忙しくなければまだ平気だと思うのだが、期末の諸々があって身体は少し疲れていた。土曜日は病院に直行し、夕食時まで父の傍らにいた。夕方頃になって少し元気を取り戻し、ベッドにゴロンとなりながらもいろいろとしゃべる様子を見て、少し安心した。

その夜はJR和歌山駅の地下にある「酒処めんどり亭」で妻と二人で軽く飲みながら食事をした。駅の近くにある有名な食事処が出店している、カウンター席だけの店。名物は串焼きと串カツである。新鮮な材料を確かな手でしっかりと調理して出される品々はどれもうまい。ちなみに串はほとんどが1本110円という信じられない値段である。ビール3杯にお燗酒、串をいろいろにやっこ、枝豆、最後に〆の名物とりめしの小さいのをいただいて、4100円であった。

翌日は、兄と甥っ子がやってきた。甥っ子はちょっと事情があって妻や僕と会うのは結婚式以来だから、8年ぶりということになる。小学5年生になっていた。将棋の相手をしてくれとせがまれ、見栄を切って30年ぶりに将棋をしたが、何とか勝つことができ面目は保った。あれが以下に頭を使うかということを改めて実感した。

その日も父はまた少し元気になり、僕らは夕食前に発ったのだが、兄の話では食事も完食だったそうだ。短くて親不孝な見舞いだったのかもしれないが、何らかの元気をあげることができ、帰りの新幹線では少し気持ちが明るくなった。

日曜日の病院と駅の行き帰りに、歩いて和歌山城のなかと通り抜けた。桜が満開でたくさんの屋台が出ていて園内はにぎわっていた。電車の窓から見える山々では山桜がところどころで満開になっていて、それもまた美しかった。こんな春なら少しでも永く続いて欲しいと願った。

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