「えぬろぐと僕のこと」にもあるように、僕が大学に5年間通うことになったのは、まあ端的に言っていわゆる「5月病」だった。独力で現役合格をしたのだから受験勉強への打ち込みはそれなりだったし、一方で大学への期待が自分のなかで先走っていたりした。だから共通一次試験で高得点をとったとしても、まだまだ何も知らなかった僕にとって、キャンパスライフというか親元を離れての独り暮らしが、それなりの作用をもたらすにはまったくもって時間がかからなかった。いわば即効だった。
5年間の大学生活を経済的に支えてくれたのは、親からの仕送り、そしてアルバイトによる収入だった。僕の学生アルバイト職歴のおよそ8割はいわゆる「家庭教師」だった。これに関しては、いま思えばちょっと安易で軟弱であったかなと思う。家庭教師のアルバイトは、4年間世話になった私営学生寮の管理人の爺さんがご近所から頼まれたものとか、大学の友達の紹介とか、結構たくさん依頼があった。
2ヶ月ですぐクビになったケースも含め、僕は6件の家庭教師を担当させてもらった。そのなかに、中学3年生から高校3年生までのほぼ4年間にわたって、勉強の面倒を見させていただいた女の子がいる。名前はアキちゃんといった。高校に合格した時点で、一旦終了になったのだが、高校1年生の1学期の成績を見たお母さんが、再び僕に電話をかけて来たのだ。厳密には4年間といっても半年余のブランクがある。
僕が早々と留年を決めて迎えた2年生の春に、体育の再履修(1年生の後期はほとんど大学に行かなかったので、出席点のみの体育でさえ落としていた。僕が通っていた大学ではこれを落とすと自動的に留年が決定する)で知り合った、留年仲間の一人と学食で飯を食っているときに、僕に家庭教師をやらないかと話を持ちかけてきた。彼が面倒を見ていた子の親友が、受験勉強を見てくれる家庭教師を捜しているというのだ。
その彼と彼の教えていた子(名前は確かあやちゃんといった)とその親友のアキちゃん、そして僕の4人で、はじめて顔合わせをしたのは、彼ら3人が住んでいた大阪の茨木市の阪急茨城駅前の喫茶店だった。お店のことはもう完全に忘れたが、そこを指定したのは彼女たちだったらしい。お店を出る時に紹介してくれた僕の友人は「中学生の時に友達とサテンなんか行っとった?」とボソっと僕に聞いた。当時、和歌山の田舎の中学生が友達同士で喫茶店に出入りする回数は、家で母親がプリンやゼリーを作ってくれる回数をはるかに下回ることは明らかである。
彼女たちは中学3年生だから当時14か15歳、僕たちとは5つ離れていた。どちらかと言えば文学的な外見のあやちゃんに対して、アキちゃんはつい最近まで長らくガールスカウトで活躍していたとのことで、まるで男の子の様な活動的な感じだった。お店を出てすぐに僕は彼女の家に行き、お母さんにご挨拶をして、そのまま家庭教師第1日目となった。
大きな家の2階に8帖くらいの自分の部屋を持っていた。部屋に入ってすぐに壁に貼られていた、男性タレントのポスター2枚が僕に鋭い視線を向けた。「あれは誰?」という問いに彼女は「京本さん、知らん?」と答えた。テレビとか芸能界と無縁の生活を送っていた僕は、京本政樹氏のことは全く知らなかった。まあ仕方ない。こうして京本さんの厳重な監視のもと、アキちゃんとのお勉強は始まった。
僕の大学生活は本当に音楽三昧だった。会社に入って、自己紹介で学生時代はバンド活動とレコード収集に明け暮れましたというと、必ず何人かの先輩は「バンドやってるとモテただろう」と言った。しかし、実際にはガールフレンドと言えるような人はとうとう一人もできなかった。自分には姉も妹もいなかったし、その意味では彼女の家庭教師を務めさせてもらった4年間は、その頃の僕に不足していた要素を、最低限なにかしら補ってくれていたのかなといまにしては思える。
ある日、彼女が高校に入る前か後かは忘れたが、部屋に通されると京本さんが突然解雇されていた。代わりに別の意味でこれまた眼光の鋭い青年がこちらを見つめている。仕方なく「あれは誰?」と聞くと「尾崎さん。京本さんはもうバイバイやねん」という答えが返ってきた。これが僕の尾崎豊との出会いだった。僕の周りで尾崎豊の名を聞くようになったのは、それからしばらくしてからのことになる。
彼女が目指した公立高校に合格させてあげることはできなかった。それでも短大の付属高校に入学して、僕は彼女の勉強の面倒を週1のペースでみることになったわけだ。高校1年生の冬には彼氏もできて、僕と入れ替わりに彼が帰るということもあった。こたつのなかに猫のニャン吉がいるのを知らずに足を入れた僕が、びっくりして中を覗き込んだら、彼女のスカートのなかが見えたこともあった。バレンタインデー前には、手作りチョコの実験台にさせられ、2年生になると「私もバンドやるねん」と言い出し、勉強後にお母さんが出しくれる晩ご飯をいただきながら、ベースの弾き方も教えた。3年生になると、部屋でタバコにまでつきあっていた。(アキちゃんのお母さんスイマセン!)。
ある時には、大学生の下宿というものを見てみたいと言い出し、僕の住んでいた寮の話をすると、お母さんにお願いして僕の下宿に勉強しにきたことがあった。風呂、トイレ、玄関までが共同という当時既に築30年のボロアパートを、学校帰りの彼女が訪ねてきたのだが、(たいそう女好きだった)管理人の爺さんが舞い上がって、お茶とお菓子を差し入れてきたりした。彼女を駅まで送って僕が帰ってくると、爺さんが「いやあタマげた。ワシももう長いことここでやっとるが、セーラー服の女学生を連れ込んだのは、アンタがはじめてじゃ!」とまったく見当外れの賞賛を浴びせられ、おっちゃんそりゃちょっと違うんやでと説得しようとしたが、面倒になってやめた。
僕が就職を決めた夏、アキちゃんも短大に進学せずに就職することを決めた。その年のゴールデンウィークに帰省したついでに、僕は彼女と1度だけ大阪で再会したが、いまどこで何をしているのかは知らない。学生結婚だったご両親のように早く結婚したいとか言っていたが、彼氏とその後どうなったのかはわからない。ともかく、その4年間にほぼ時を同じくして、尾崎豊は突如として音楽シーンに出現し、あっという間に伝説を築き上げたのだ。このライブ作品はその伝説が完成した10代最後の瞬間を記録したものだ。僕はこの時期までの彼のレコードを大抵アキちゃんに借りてテープに録って聴いていた。気がつけば、男の子のような少女も大人の女に変わろうとしていた。
尾崎豊について知らぬ人はほとんどいないと思う。いろいろな音源、映像、書籍、記事、解説、逸話、賞賛、偏見、目論見、等々が溢れている。僕はそれについて語るつもりはない。ここに昔の思い出とともに、この作品を取り上げておくことで、僕にとっては十分かと思う。そして、それはいまから12年前の今日だった。僕は上京して4年目、仕事もそこそこジャズを中心にCD集めも絶好調だった。突然舞い込んだ彼の訃報は、僕にとっても大きなショックだった。そしてとても残念に感じた。
昨日、病院に通う途中でどういうわけか急に彼の歌を思い出し、その頃のことを思い出すと、無性に聴いてみたくなった。そこでいま入手可能な作品を一通り眺めて、迷わずこの作品を購入した。僕にとってはこれだけで満足だし、この先これを手放すこともないだろう。
永遠の尾崎豊データベースHP
尾崎ハウス 尾崎豊が最後を迎えた民家(存続が決定したようです)
Ozaki Yutaka.net 他にも公式サイト的なものがたくさんあるようです
茨木市 大阪府茨木市