4/04/2004

マルク=アンドレ=アムラン「コンポーザ ピアニスト」

Marc-André Hamelin:  満開の桜を眺める。葉も出ないうちから、小さな花があれだけ大きな木の枝ぶり一杯に咲き魅だれる。不思議な植物である。日本では、桜は新しい門出のイメージになっている。もちろん時節が重なっていることからくるイメージなのだろうが、華やかな花で始まり、葉をのばして光や外気を吸収し、それが枝を成長させ、木を成長させる。小さな花がたくさん集まり、大きな木全体の美しさを演出する。そうしたことが社会のなりたちとか発展のイメージに重なっている様にも思える。

 僕自身は数年前から、桜の花を見ると、それとは別のあるイメージに取り憑かれるようになった。それは「匠」とか「技術」というイメージである。あまり深い話ではないのだが、遠くから見る美しい桜の木が、木の真下まで近寄ってみると、精巧な一つ一つの花の集まりになっている。テレビ東京で放映中の番組「美の巨人たち」がお気に入りでよく観ており、そのなかで時折紹介される、絵画作品のディテールからその再現方法の推測が、このイメージの元になっている。昔の芸術家は色を再現するために、様々な顔料や色の調合、画材への付け方など様々な技を研究し開発してきた。満開の桜に遠くから近づくたびに、そこに宿る表現技巧師の存在をイメージしてしまうのである。還元主義的だと思われるのは不本意なのだが。

 僕自身の絵心は最悪だが、子供の頃熱中したプラモデルづくりで、そうしたことを少しばかり研究した過去がある。プラモデルは、部品をきれいに組み立てて、色を塗って、シールを貼る、ここまででももちろん技術が必要なのだが、本当の楽しみはここから始まる。いわゆる「ヨゴシ」の表現である。実戦にまみれた戦車の泥、埃、弾痕、煤、錆こうしたものを塗料やその他の材料でどう表現するか、これが醍醐味なのである。

 レーシングカーのプラモデルを組み立てるのに、赤いポルシェだからといって、ボディーを単に赤く塗るだけでは浅い。まずは暗い銀色でボディーなどを塗装し、そのうえから別な種類の塗料で赤く塗る。何故か。答えは簡単で、最初の銀色は金属そのものの色なのである。こうしておくと、後から実際のレースでつく細かな傷を再現するとき、実際に針などで引っ掻いたりすれば、車と同じイメージの塗料のはがれ痕が再現される。実際、傷を後から筆で描こうとしても、容易でないことはやってみればよくわかる。ものを再現するにはその成りたちに立ち返ることも重要なのだ。

 音で何かを表現するという場合は、また事情が違ってくる。そもそも音楽表現は色や風景など絵画的な表現についても、また感情や思想のような文学的な表現についても、主たる表現手段ではない。そうした視覚や言葉のような直感性を持たないことが、逆に精神性など抽象的な領域の表現として、人の心をとらえて離さないのだと思う。

 西洋音楽が音楽の歴史の中心といえるかどうかという議論は、実のところなかなか難しいと僕自身は思っている。12音階による音律(メロディー)、短調長調などの和声(ハーモニー)、4/4やワルツなどの拍子(リズム)という音楽の3要素についての理論を整理したことと、意外に忘れられがちなのが、様々な種類の楽器とその演奏技法を発展させてきたことが大きな貢献(成果?)だろう。そして、その中で出てきたもう1つの側面は、作曲と演奏という「分業」をもたらしたことではないかと思う。ここではあまり多くは書かないが、この分業は、システムとしての規模を大きくするには好都合であるが、作品などの本来の所為の内容に著しい影響をもたらしていることは事実である。どちらかというと、それはいま悪い方向に振れてしまって、その揺り戻しが始まっている時代ではないだろうか。それは、もちろん音楽に限ったことではないだろう。

 今回の作品はいわゆるクラシック音楽である。演奏しているカナダ出身のピアニスト、マルク-アンドレ=アムランは今年42歳。彼に対するその筋の人たちの評価は二分されている。「技巧に裏付けられた芸術性」そして「器用貧乏」である。タイトルの意味は「作曲家–演奏家」である。つまり、自ら優れたピアニストであり作曲家でもあった人、ということなのだが、モーツアルトもベートーベンももっぱらピアノを使って作曲していたという意味では、これに当てはまらなくもないのだが、ここでいうピアニストとはもう少し時代が進み、先ほどの意味での分業が進んだ19世紀後半から20世紀時代の人たちである。ピアノ音楽はショパンの登場で一つの完成されたスタイルを現した時代であり、その背景にピアノという楽器そのものの技術的確立があったことを忘れてはいけない。

 収録されている「作曲家-演奏家」はゴドフスキー、スクリャービン、ソラブジ、アルカン、ラフマニノフ、ファインバーグ、ブゾーニ、メドネル、そしてアムラン本人である。さて皆さんはこの中の何人の名前をご存知だろうか。音楽の教科書に名前が出ているのは、ラフマニノフとスクリャービンの2人、一般に名前が知られているのは、NHKの番組で一躍有名になったフジコ=ヘミングやデビッド=ヘルフゴット(彼の物語は「シャイン」という映画でご存知の方も多いだろう)のレパートリーとして有名になった、ラフマニノフだけだろう。残りの人たちに対するその筋の人の評価は、アムラン同様にある意味厳しいらしい。

 例えばゴドフスキーは、自身の作品以外にも、ショパンをはじめ多くの先代作曲家作品の変奏曲を熱心に発表している。まだ未完成だった時代のピアノ曲を完成された時代のピアノ曲として作り直してみました、とやったところ「冒涜だ!」と一斉に罵声を浴びた。その多くは、いまだCD等で聴くことはできない状況にある。本人以外の演奏家に拒否され続けたこうした人たちの作品を、次々に録音して発表しているのがアムランである。彼らの以降の20世紀後半の西洋音楽は、技巧の限界も超えて(悪い意味でなく)破壊的な方向に進んで行く。世の中にはそのことを認めたがらない人が多い。それは、いま僕たちの意外に身近なところで起こっていることと実は同じなのではないかと思う。

 収録作品は、そうした「作曲家-演奏家」たちの魅力十分の小品ばかり、聴きやすくまとめられているのがうれしい。一応、えぬろぐとしてお断わりしておくが(苦笑)、ここに収録された作品はいずれも決して難解なものではない。みんなが集まるお花見のBGMに使ってもまったく大丈夫である。冒頭のゴドフスキーのトッカータは、16部音符が最初から最後まで途切れることなく展開する。僕はこれを聴くと、頭の中で満開の桜の木をすみずみまでつぶさに観察するような気分になる。桜吹雪を浴びるような気持ちで、この音技巧の吹雪を体感する春というのも一興ではないだろうか。

 「技は巧みなり」


Hyperion Records

Leopold Godowsky
美の巨人たち(テレビ東京)
田宮模型
同社の1/35ミリタリーミニチュアシリーズ