12/24/2017

ジェニファー・ホリデイ「ヒズ アイズ イズ オン ザ スパロウ」

クリスマスですね。今年はなかなかいい冷え込みですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。

今日は子どもの野球チームの年納めとして、親子大会とそれに続いて納会が行われました。

この1年間のチームと個人の成績発表と表彰があり、それに続いて来年からの新しい背番号の発表が行われました。

子どもはチームにどれだけ貢献できているのかは未知数ですが、今日もらった新しい番号を見るに、それなりの評価はもらえたのだと思います。来年も頑張ろうね。


クリスマスの夜にこんな歌声はいかがでしょうか。ゴスペルシンガー、クリストファー・ホリデイの"His eye is on the Sparrow"。

私の彼氏が雀を見ている、ではないですよ。このHisは大文字のHis、つまりは神様のことを表しています。主の眼差しは雀の上に、とでも言えばいいのでしょうか。

ともかくご覧ください。



スゴいですよね!!これ。圧倒的な歌唱とエネルギー。彼女のそれが高まるとき、興奮した聴衆が手をかざして、その発散にあやかろうとする様がとても印象的です。

僕が初めてこの映像を見たのは、1989年頃だったかな。スーパーセッションズという、海外企画の音楽番組で、いろいろなジャンルの音楽についてのスーパースターを集めた番組の、ゴスペル編を視たときのことでした。

確かレーザーディスクかなにかで発売されていたのですが、どのジャンルもあまりの豪華メンバー故か、DVD時代以降には再発されずに終わっています。

1度視たら忘れられるはずもなく、彼女の名前とこの曲名は、以来、僕の頭にしっかり刻み込まれてしまいました。

ピュアなエネルギーの発情に、思わずいろいろなことを忘れて没入してしまう。それがこの音楽の本性なのでしょう。

自分のどこかにも、まだこんなエネルギーの一部がのこっているのでしょうか。それが自分にとって、なるべく純粋な形で外の世界にも何かを通じて表すことができればと願っています。


(おまけ)

会社のビルから見た朝の風景。遠くに富士山、わかるかな?



クリスマスは妻がバイトしているケーキ屋さんのクリオロ。チョコが自慢のお店らしく、とても濃厚で美味でした。デコレーションも素敵です。

12/17/2017

高柳昌行「アングリー ウェイブズ」

ギターブームが続いていますが、やっぱりロックから延焼する先はフリー系でした(笑)。1ヶ月ほど前から高柳昌行のアルバムをCDで何点か買い求めて聴き込んでいます。

複数のギターとテープなどを駆使して独自の音響空間を織りなす「アクションダイレクト」と銘打った活動も非常に興味深いのですが、いまの僕にはオーソドッックスな奏法でギターを奏でて創りあげる作品が好みです。これはギターに限ったことではないです。

以前にもよく聴いた「ソロ」「ロンリーウーマン」をまた何度か聴くうちに、その2年後の1984年に横浜エアジンで収録されたライヴアルバム「アングリー ウェイヴズ」に俄然惹かれてしまいました。

メンバーがいいですよね。ベースに井野信義、ドラムに山崎比呂志というトリオ編成。高柳さんはフルアコを少し歪ませた独特のトーンで自由に快調に弾きまくり、見事なトリオ演奏が展開します。

2部構成のステージをカセットデッキで録音したものをそのまま2枚のCDにしたそうです。発売されたのは2016年の2月です。

エアジンの店内は記憶に新しいところですが、33年前のあの場所でこれが演奏されたことと、それをいま僕がこうして楽しんでいることを考えると、いろいろな意味で巡り合わせというものの不思議さを感じます。

全8曲中5曲が(アルバート)アイラーの作品をモチーフにしたもの。サックスの咆哮をとてもギターらしいフレージングで、ある意味ストレートに奏でるのがとても小気味よいです。

何度も聴き込むほどに、自然とアイラーのトリオに世界が通じていく気がして、その時空間がつながる様にあらためて音楽は素晴らしいなと思う次第であります。

唯一気になるのがこのユニットの名前「アングリーウェイヴズ」です。高柳さん=怒りなんでしょうか、それともアイラーかな。別に怒らなくてもいいと思うんですけどね。僕の中ではこの音楽と怒りは全然つながらないです。

小難しい言葉はいらないです。残り伝わるのは音そのものがもつ力です。ただそれに耳を傾け感じるままに任せればよいのです。そこに自分の生きた証が映るのです。


(おまけ)

週末の散歩にいつものラーメン屋「笑苑」さんから本牧小港まで歩いて、そこから港の見える丘公園に向かって登る「ワシン坂」を初めて登ってみました。

ずっと以前からのこの不思議な名前の坂とそこにその名を冠した病院があることは知っていたのですが、土曜日に初めて登った時にはなんともうら寂しい雰囲気だなと思ったのでした。

それが、続く日曜日にもその近所の運動場で子どもの野球の練習試合を観戦した帰りにまたこの坂を登って帰ってみたのですが、今度は逆に独特な趣を感じてこの坂が好きになりました。

坂を登りきった道中から眺めるベイブリッジとつばさ橋。この角度はここでしか見ることができません。


12/09/2017

谷崎潤一郎「陰翳礼讃」

寒くなりましたね。

谷崎潤一郎のエッセイ「陰翳礼讃」を読みました。チベット旅行記を読み終えた時におすすめで出てきていたもの。たぶん、和辻哲郎とかをKindleに入れていることも関係あるのだと思います。

僕は彼の小説を読んだことがありませんでしたが、この作品はエッセイで、しかもテーマが日常のなかに垣間見る日本文化なので、彼の表現はある意味でストレートですんなり心に入ってきました。

内容はタイトル通り、日本文化の特徴である陰翳(いんえい)について、急速に西洋文化に染まる当時の日本の状況の中で、いま一度その素晴らしさと起源を考えてみようというものです。

やっぱりこの時代の芸術は表現が豊かです。20世紀前半はそれまでの文化がある意味でのピークを迎えて百花繚乱となった時代だったのでしょう。もちろん分野や地域によっていろいろな違いはありますが。

その頂点が戦争の影響を起爆剤に、しかしあくまでもそれ自体が内在していたエネルギーによって自爆を起こして、一旦リセットされてしまったのが20世紀後半の出来事だったと思います。

現代も文章による表現は盛んですが、やはり描写などの技術はこの時代のものに比較すればシンプルなものです。そこには表現技巧を楽しむという要素は薄く、やはり書かれている内容そのものに対する興味が中心です。

昨夜、妻と夕飯で安い白ワインを飲みながら話して考えたのは、もし文芸が書道と融合するかたちで進化していたら、ということでした。

いまほとんどの文章表現は活字により現わされます。枕草子も芥川も村上春樹もドストエフスキーもプログラミング入門も、皆同じ活字です。この文章表現をこう言う書体(人の手によるもの)で表現するという習慣はありません。

一方、音楽には「音色」という要素があります。見過ごされがちですが非常に大事な要素です。僕がよく聴いている即興系の音楽では音色表現のウェイトはとても大きいです。

それはわざと変な弾き方をしてノイジーな音を出すということ(僕はあまり好きではありませんが)ではなく、一番シンプルにその楽器本来の出る音の素晴らしさがあれば、ただドレミファソラシドを弾き続けるだけでもそれは聴き応えのある芸術になると思ってます。

音色による表現と演奏技巧による表現は境目は極めて曖昧であります。ピアノのような楽器でさえそういうものだと思います。

しかし文学にはそういう習慣は初期の段階で失われてしまいました。作者のオリジナル原稿で読みたいとそれを求める人はいません。あるいは、著名な書家が有名な文芸作品の全編を書き記した版というのもありません。

谷崎のこの作品を読みながら、その内容と同時に彼の文章表現も併せて楽しむうちに、ふとこの原稿のオリジナルを読んでみたいという想いに駆られました。

1933年の雑誌連載をまとめたものだそうで、いまの日本語に比べるとかなり古い文字使いや言い回しもありますが、比較的読みやすい内容だと思います。

もちろん無料で読めます。無料の本だけで十分今後の読書を楽しめるだろうなと思ってます。いまは読み終わってからおすすめで出てきた別の本を読んでます。すっかり読書習慣がつきました。Kindleは素晴らしいです。


(おまけ)

仕事で出かけた帰りに歩いた東麻布の路地裏からの風景。


家路に少し歩こうと桜木町で電車を降りて横浜スタジアムを通りかかったらちょうど改修工事が始まっているところでした。