今日はまた押入れにしまってあるCD収納箱を取り出して、少しCDの入替を行った。このところやや熱心に購入が続いたので、部屋に与えられている収納スペースが窮屈になって来た。かといって押入れの収納段ボール3箱も一杯になっている。とうとう、古いパソコンソフトなどを入れてあった段ボール箱を解放し、新たに第4のCD収納箱として働いてもらうことにした。と、部屋に出してあるもので、だぶつき気味だったものが一気にそこに流れ込み、早くも半分が埋まってしまった。おかげで部屋に少し余裕が生まれ、また購入意欲に火がつきそうである。まあ蒐集とはこういうものだ。
以前は、買ったものについて確実に記憶している自信があったのだが、買ったはずのものがなかったり(売ってしまったことを忘れている)、少し前に注文しかけた作品を箱の中から発見して焦ったり(一度にたくさん買いすぎてほとんど聴いていなかった)と、自分の記憶にやや怪しいところが発覚したりして、あまり有難くない経験までさせてもらった。
余談だがCDやDVDといった光ティスクは決して永久的なものではなく、寿命というものがあるらしい。取扱いが粗雑で傷がつけば、ディスクの劣化はそれだけ早くなるのはわかるが、特に何もしなくても品質の悪いものは20年前後で劣化が起こるという話もある。僕が最初のCDを買ってからもう20年以上経つ。確かに、初期の輸入CDには品質の悪いものがあった。致命的なのは、ディスクの一番内側の部分に傷がついたりすることで、ここがやられると、プレーヤに入れても再生できなくなる。何曲入りで全部で何分という情報が表示されなくなるので、プレイヤーがどう再生していいかわからなくなるのだ。
今週はいろいろな音楽を聴いた。特に深く聴いた作品とアーチストが他にあったのだが、それについてはもう少し時間をおいてから書きたいと思う。代わりにといっては何だが、今回は久しぶりに、最近なかなかいい出物にお目にかかれない、サックスの作品を取り上げようと思う。もちろんこれは今日の入替作業で長いお蔵入りから解放されたものだ。少し前に、最近いいサックスの作品がないなと考えたときに、ふと思い出したのだ。
この作品は、イギリス人サックス奏者アンディ=シェパードの記念すべき初リーダー作である。これが発表された1987年は、彼とコトニー=パインという2人のサックス奏者が、イギリスから相次いで衝撃的なデビューを飾った年である。イギリスという国は、それまではジャズとは若干縁遠い国であったが、これらの作品を機にそのシーンは急速に世界の注目を集めるようになった。同時に、当時英国で急速に成長しつつあったクラブミュージックがジャズと融合し、今日ではジャズという言葉が、むしろそちら側の言葉となってしまった感さえある状況になっている。昔ながらのジャズファンはそういう現状を嘆くのかもしれないが、いわゆるモダンジャズの現状を見るに、これはこれで必然的な流れだったと思う。
内容はいわゆるモダンジャズの延長としてはかなりかけ離れたもので、ジャズをベースにもっと視野の広い進歩的な音楽が一杯に詰まっている。先に紹介したジョン=スコフィールドの最新作でベースを演奏しているスティーブ=スワローがプロデュースを担当しており、他に最近はいまひとつだがそれでも現在を代表するサックス奏者マイケル=ブレッカーの兄、ランディー=ブレッカーがトランペットで数曲参加している。アンディはソプラノとテナーを中心に、とてもメロディアスで情熱的な演奏を繰り広げている。
このアルバムは発売当時は大変な好評を博したが、続くセカンドアルバムでは、この路線は早くも破綻し始めたように僕の耳には聴こえた。そしてそのアルバムはもう僕の手元には無い。いま考えてみれば、この路線はウェザーリポートなどに代表される、ジャズをワールドミュージックの方向に発展させたものだったのだが、結局そのやり方はスタイル的な落着点を見いだせないまま、中途半端な内容になって音楽の方向性としての流れをつくれないまま分散してしまったように思う。
その後、僕の興味はヨーロピアンフリーとハウスミュージックに向かい、彼の存在はいつの間にか忘れてしまっていた。同時期にデビューしたコトニーは、ハウスに取り込まれた新しいジャズの波にのって、いまやクラブジャズシーンの大御所である。現在でもDJを引き連れて東京のブルーノートに時折出演している。まあ、そのハウスミュージック自身も、さらに早いスピードで様変わりしているわけだが。
アンディがその後どうしているのか気にかけたこともなかったのだが、彼のサイトを見る限りは、いろいろな活動を続けながら、現在までリーダー作も発表し続けている。いまのところあまり聴いてみようという気にはならないが、カーラ=ブレイなど新しい音楽の先端にいる人たちと演奏活躍をしているようである。
おそらく結婚する際に、それまで住んでいたアパートを引き払う時に箱詰めして以来、ほぼ6年ぶりに箱から出して聴いてみたCDだったが、最初、プレーヤがディスクを認識してくれなくて少々焦った。確かにもう17年が経過したディスクであり、この前聴いたときにはどういう扱いをしたのか、盤面もずいぶん汚れていた。ディスクを水で洗ってきれいにしてやると、無事に再生することができた。
就職で上京して、はじめて渋谷にCDを買いに行ったときのことを思い出し、バブル景気に沸いた当時の世相を思い出しながら演奏を楽しんだ。たぶん次にCDを整理するときには、また箱の中に戻ることになると思うが、少し立ち止まって一息入れるような気分で楽しめた作品である。たまにはこういう聴き方をするのもいいものだ。
Andy Sheppard- Jazz musician and composer 公式サイト
10/31/2004
10/22/2004
tohko「籐子」
職場のチームメンバーが、携帯型音楽プレーヤの市場についてショートレポートをまとめるというので、そのラフ版を見せてもらった。アップルのiPodに端を発したブームのおかげで、この世界はいま非常に活気があり、いろいろなメーカからいろいろな製品が出されている。人気のiPodは小型のハードディスクにたくさんの音楽が収録できるのが魅力だが、これはいくらデザインがよくてオシャレだと言われても僕の感覚には合わない。ハードディスクといういかにも壊れやすそうなものを持ち歩くことに抵抗があるのと、電源が専用の充電池なので出先で電池が切れたらどうしようもないという不安がどうしても拭えないのだ。
僕は、Rio500というMP3プレーヤの草分け的傑作品を持っていて、それにメモリを増設して重宝していた。とにかく軽いし、振動にも強いので、通勤だけでなく散歩しながら音楽を聴いたりするのには持ってこいのアイテムだった。だがこれにはいくつか欠点もあった。1つはメモリが少なくて128MBを増設してもせいぜいCDにして3枚分しか入らない。そこで頻繁に入替が必要になるわけだが、これが意外に面倒でしかも音楽の転送の際に電池を激しく消耗した。もう1つは、増設用の着脱式スマートメディアが、僕にはどうにも頼りなさげに感じられ、いつダメになるかと気が気でなかった。そもそも半導体メモリなどというものは、いくら安全にパッケージされているとはいえ、本来はつけたりはずしたりするようなものではない、という古い(?)考えがどうしても抜けないらしい。予想通り、それはしばらく使っているうちにメモリカードを認識できなくなり、壊れてしまった。
ということで、愛用して来たRio500が壊れてしまって以降は、元に戻ってもっぱらソニーのCDウォークマンを使ってきた。重いし振動には弱いという欠点はあるが、やはりすぐにCDを入れ替えられる手軽さは、僕のようにいろいろな音楽を聴く人間には捨てがたいものでもある。それでもときおり起こる音飛びには我慢を重ねる毎日だったのだけれど。
メンバーの作ったレポートイメージを眺めていると、少し前にRioからSU10という製品が出ていて、内蔵メモリが1GBというモデルでありながら、価格は23,000円台とお手頃だということを知り、いつもの思い込みが激しい性格で、僕の心は急速にその商品に惹かれていった。その週末にはちょうどひきはじめだった風邪をおして、川崎のヨドバシカメラに出かけていった。店頭では、既にその商品は新製品に場所を譲っていて展示されていなかった。新しいSU70では液晶がカラーになったとか店員がいろいろ説明をしてくれたが、値段は高いし僕の心は動かなかった。僕がSU10を指名すると、店員はすぐに出して来てくれた。値段を確認した僕は、迷わず赤の1GBモデルを購入した。
ちょうどお昼前だったので、ヨドバシカメラと同じショッピングビル「ルフロン」1階にある「カフェハイチ」で目玉カレーとコーラを注文した。天気がよかったので、家に帰って早速SU10に音楽を入れて、多摩川あたりを散歩しようと思った。何を聴こうかなとわくわくしてみたものの、最近聴いていたジャズピアノはちょっと散歩の音楽には違うと思った。尺八でもないし、クラシックの室内楽、それもちがう。ここはやっぱり気楽にJ-Popがいいかなと考えたときに、急に頭の中で2つの歌メロディがほぼ同時によぎったのだった。僕はそれが同じアーチストの曲だったはずだとは感じたのだが、とっさに名前が出て来ない。たしか、小室哲哉プロデュースの女の子だったはずなのだが…。運ばれて来たカレーを食べながら、しばらく思い出してみると「トーコ」という名前が浮かんで来た。
しかし曲名はどちらもさっぱり思い出せない。というのも、僕はその子のCDを持っていなかったし、人から借りたり聴かせてもらったことはなかったのだ。ただテレビで見かけて耳にしたりしたものをどこかに覚えていたのだろう。だから曲名を知らないのも無理はない。早速、その足でCD屋さんに出かけてみた。その店では既に彼女のコーナーはなく、「J-POP:と」のコーナー売り場に置いてあったアルバムジャケットを見て、そのうちの1曲が「BAD LUCK ON LOVE」というタイトルだということを思い出した。それは、当時の職場仲間とカラオケに行った際に、女の子のひとりが「これなかなかいいんですよ」と挑戦して、曲の途中で呼吸困難に陥ったという思い出とともに、僕の頭の中によみがえって来たのだ。もう1曲のタイトルはやはりわからなかった。
今回の作品は、そのtohkoのデビューアルバムである。僕はこれをそのお店で買わずに、近くにある中古ショップのブックオフで手に入れた(トーコさんゴメンナサイ)。これは一昔前のJ-Popを楽しむ際の決まりごとのようなものである。彼女に限らず、というかそれ以上に、宇多田も浜崎もサザンもビーズも、こうしたお店には一昔前のミリオン作品の中古品が山のように置いてある。値段はもう大変なものである。こんなお店が全国にたくさんあるのだから、いったいミリオンヒットとは何なのかを考えてみるに、音楽とビジネスの奇妙な関係としか言えない不思議な思いに駆られる。まあ何かその音楽によいところがあるのは間違いない、しかしその反対にほとんど売れない作品はいいところがないのか、というと決してそんなことは無いのである。ともかくそれが僕とこのCDの出会いだった。
家に帰って、早速聴いてみた。はじめて全編通して聴いた彼女のデビュー曲「バッド ラック オン ラブ」。3分半と割と短い曲だが、彼女のヴォーカルの素質が全編にみなぎり、曲の構成も相まってその迫力に圧倒されてしまった。サビの部分で、彼女の声が、エレキギターの鳴きの音みたいにメタリックな輝きに聴こえる瞬間があって、一瞬凍りつく思いがした。この曲は、小室氏の片腕といわれた日向大介とglobeのマークが共作した曲だとわかったが、サウンドはもう小室のそれである。もう1曲の曲名は「LOOPな気持ち」だった。これはテレビのコマーシャルかなにかで使われていたものだ。僕はこの2曲を含めた全12曲をSU10に入れて、散歩に出かけた。ちょうど天気もよくて暖かな日曜日、音楽は散歩によくマッチした。
久しぶりにこういう作品を聴いてみて、このtohkoという人の歌の才能に少々驚いた。声の伸び、音程、そして安定感といった基本的なところでの上手さがある。高音域で伸びる歌声は、聴くものにある種の緊張感をもたらすものであるが、tohkoの歌声はそれでもどこか童的というか和みを感じさせてくれるのがいい。彼女は当初は宝塚を目指していたというから、歌の素質は天性のものだったのだろう。このアルバムを録音した頃はまだ大学に在学中で、それも保母の免許を取得して無事に卒業されたのだそうだ。その後もアニメの主題歌やミュージカルへの出演など、いろいろと音楽の活動を続けていらっしゃるようである。
そしてもう一つ、あらためて小室哲哉という人のすごさを感じた。彼は、本当にその人のキャラクターを見抜いた的確なプロデュースをしていると思う。彼について、ショービジネスの成功物語とその時代としてだけ語られるのは、なんとも空しい話である。まだ10年も経過していないのだが、あの頃の作品をヴィジュアルの面や、いくつも収録された頼りないリミックステイクや、そして中古ショップに溢れた商品という様な点で見れば、確かに色褪せたものを感じる。しかしそうしたものは、はっきり言って音楽の本質には関係がない。本当にいい歌はアカペラでもいい。その意味でも彼の一連の作品は音楽の歴史に残るべきものだと思う。
技術の発達で、音楽はますます手軽に楽しめる時代になっている。しかし、それは決して音楽が使い捨てになるということを意味しているわけではない。技術は、ひとたび世に放たれた音楽をずっと記録に残すこともまた容易にしているのだ。作品として世に放たれた音楽には、その時点で命が与えられたようなもので、それはそのアーチストの名誉でもありまた責任でもある。この作品は、はっきり言っていまこの時点では、ほとんど忘れ去られようとしている歌なのかもしれない。しかし、街中で不意に僕の耳によみがえって来たそのメロディは、作品としていま聴いてもまったく色あせない、彼女の新鮮で力強い息吹がとじ込められていて感動的だった。
アーチストtohkoとしての新作がリリースされていないのがちょっと残念に思った。なんとかこの素晴らしい歌声で息の長い活動を期待したい人である。
籘子 tohkoさん自身による公式サイト
Rio Audio
10/17/2004
ビル=エヴァンス トリオ「パリ コンサート」
CD蒐集が興じてくると、新品で買うほどでもなく中古盤で見つかれば買っとこう、というようなアイテムがいろいろ出てくる。再発の新品で買おうと思っていたら、いつの間にか廃盤になっていたりということが、何度か繰り返されているものもある。ジャズは中途半端にマイナーなジャンルなので、レーベルが倒産したり売買されたりして、発売元を転々とすることもある。それでも発売され続けるところが、ジャズの根強いところだろう。
1980年代後半からしばらくの間、日本のレコード会社によるジャズ関連の復刻ブームが巻き起こり、こんなものまでCDになるのかと驚かされるほど、マイナータイトルのCD化が進んだ。おかげでマスターテープを再チェックするなどの作業が一気に進み、貴重な音源を発見すればそれが商売になるという、ある意味いい状況をもたらしてくれた。
インターネットの時代になって、世界のマニアがこぞって自分のお気に入りのアーチストに関する専門サイトを立ち上げるようになり、情報の共有は一気に加速している。これはなにも今日ご紹介する、ビル=エヴァンスのような超メジャーアーチストの場合に限ったことではない。なかには、随分充実のサイトだなと思って見ていると、アーチスト本人が運営している場合もある。いずれご紹介することになると思うが、契約の切れた自分の音源をインターネットで公開している人もいる程だ。
さて、今回の作品は、僕がこれまで何度となく中古CD屋さんの棚で見かけて、しばらく手に持って買おうと決めながら、直後により魅力的なものが発見されて、仕方なく手放してしまい、次にお店を訪れた時にはもうなかった、というようなことでなかなか買う機会がないまま、ずっと気になり続けていた、というものである。アマゾンの輸入版セールのカタログに入っているのを見つけて、この度めでたく購入となった。
ビル=エヴァンスは白人のジャズピアノを代表する巨人であり、彼が確立したスタイルは、ジャズに限らず、彼以降の世代の幅広い領域のピアノ演奏家に、いまなお影響を与え続けている。1950年代半ばからプロとして活動をはじめ、1980年に亡くなるまで約25年間に渡って常に第一線で自己の演奏スタイルを貫いた演奏活動を続けた。ピアノ、ベース、ドラムという編成のピアノトリオによる音楽スタイルを確立したのは、バド=パウエルと言われるが、エヴァンスの功績は、このスタイルによる表現の多様性と奥深さを飛躍的に高めたことだ。
この名声は、1959年から約2年間に編成されたトリオで録音された4枚のアルバムにより、確立されたものといってよいだろう。その4枚とは「ポートレート イン ジャズ」「エクスプロレーションズ」「ワルツ フォー デビィ」「サンデイ アット ザ ヴィレッジ バンガード」である。メンバーは、ベースにスコット=ラファロ、そしてドラムがポール=モチアンだった。一言で言ってしまえば、それまでリズムをメインに担当していたベースとドラムが、メロディやハーモニー、そしてリズムとは異なる意味での音楽の時間的広がりの演出という、それまで主にピアノがメインに担当していた領域に大きく出てきたのである。結果、3人が対等の関係で音楽を展開し、時にスリリングに時にリリカルにと、まるでクラシック音楽のような大胆な表現が、即興で行われるという表現世界が生まれた。「何だそれは」という方は、とにかく上記4つの作品を聴けば一瞬にして理解できます、ハイ。
エヴァンスはその名声の一方で、なかなか多難な人であった。それは先の名トリオの重要メンバーであるラファロが若くして突然事故死してしまったあたりから、始まっている。私生活でも決して幸福ではなかったようだ。その後、彼のトリオは様々なメンバーが去来することになる。先にご紹介したキース=ジャレットのトリオのメンバー、ゲイリー=ピーコックとジャック=ディジョネットも時期は異なるがエヴァンストリオのメンバーを務めている。そのせいか、当初は意図的にエヴァンスの有名レパートリーを演奏することを避けていた、とジャレットがインタビューで語っているのを読んだ記憶がある。それほど、エヴァンスの存在は大きいのである。
今回のご紹介する「パリ コンサート」は、彼の最後のトリオによるコンサートを、2枚のCDに収録したものである。1990年代になって、同じメンバーによるこれより後の録音が発表されるまでは、公式に発売されているものとしてはエヴァンス最後の演奏と言われており、そのことが僕にはずっと気になっていた。エヴァンスはこのメンバーによるトリオについて、あの黄金のトリオに匹敵するものだと、非常に自信を持っていたらしい。僕自身は、ともかくエヴァンス最後期のピアノが聴ければいいや、という程度の期待であったのだが、実際に聴いてみると、ピアノはもちろんトリオとしての出来も予想以上のものだった。僕の耳にもエバンスの自信は確かにそう感じられた。
このコンサートでも、黄金トリオのレパートリが演奏される度に、大きな拍手が沸き上がる。ピアノのソロ演奏で始まる「マイ ロマンス」が、トリオ演奏に入ったところで、エヴァンスがテーマの音をはずしているが、それが何か過去の呪縛に対する彼のささやかな抵抗のようにも聴こえた。そして最後の「ナーディス」でも、冒頭に激しくアブストラクとなソロ演奏が展開され、続いてベースのマーク=ジョンソン、そしてドラムのジョー=ラバーベラ(サックス奏者パット=ラバーベラの兄弟)のソロがたっぷりと堪能できるロングヴァージョンである。おまけとして、2枚目の最後には、最晩年のエヴァンスの肉声(インタビュー)も収録されている。
いろいろな災いを乗り越えて、ピアノでの表現を追求し続ける姿勢に、「う〜ん、いいねぇ〜これ」というようなところを遥かに通り越した、熱い感動が身体のなかを流れた。この作品に対する評価は様々のようだが、僕自身としては、エヴァンス本人のいう通り、あの黄金メンバーによる4枚に決して引けを取らない、彼自身の充実感が伝わってくる傑作だと思う。
The Bill Evans Webpages 公式(?)サイト—ディスコグラフィやバイオグラフィなど
10/10/2004
キース=ジャレット/ゲイリー=ピーコック/ジャック=ディジョネット「オールウェイズ レット ミー ゴー」
前々回の海童道、そして前回の横山勝也と純邦楽が続いた。この2週間は実際に聴いていた音楽も、ほとんどそのいずれかだった。尺八の演奏は「風を聴く」ようなものである。おかげで自分の耳にたまっていた、いろいろな音楽を聴いた結果として残った、何か「燃えかす」のようなものが吹き飛ばされ、きれいにリセットされたような気分になり、以降何を聴いてもとても新鮮に聴こえる。音楽を聴くうえでの基本的姿勢のひとつは、演奏者の息遣をたどること。そのことを、あの作品は僕に再確認させてくれたように思う。楽器を演奏する機会が、家でつま弾くレベルのことも含め、かなり減ってしまっているこの頃だけに、そういう姿勢はなおさら忘れかけていくものだったのかもしれない。
尺八の演奏を聴いてみて、あらためて考えたのは「自由」ということだった。風のように聴こえる尺八の演奏は、厳しい「道」のうえに成り立った芸術であることはもちろんなのだが、海童道のようにそうした道を外れてさらなる「自然」を求めた音楽にも、それを含めてさらには西洋音楽の領域までを視野にいれつつ、従来の尺八道を広げようとする横山勝也の音楽にも、共通して「自由」という時間や空間の概念を表現する姿勢を感じずにはいられなかった。西洋音楽のメロディー、ハーモニー、リズムという音楽の要素という観点からは、非常に自由な何か、それは単に僕自身にとっての耳新しいさだけなのかもしれないが、を感じさせてくれた。逆に、フリージャズなど西洋のフリーミュージックが、ともすれば散漫なものに聴こえてしまうのは、そうした「道」の不在によるところが大きいと言えるのかもしれない。
いまの時代、僕たちの生き方は自由なのかと問われれば、なかなか難しい。昔に比べて年齢や性別に起因した伝統的な因襲やしきたりからは、確かにかなり解放されつつある一方で、現代というシステムは、僕らに新たな因襲をもたらしているようにも思える。若い世代はいつの時代にも「自由」を叫ぶ。会社の企画や戦略を議論する場でも、「従来の枠にとらわれずもっと自由に」というような言葉をよく耳にする。それは実行の当事者に向けられているのか、組織や体制に向けられているのか、実際のところは難しい問題である。もちろん「自由」と「道」はそのいずれかが絶対的に存在できるものではないのだが。
今回の作品は、タイトルがとても印象的である。日本語で言えば「いつも自由でいさせてくれ」とでもなるのだろうか。1ヶ月ほど前にとりあげたキース=ジャレットの作品がその代表であったように、この3人による演奏活動はジャズのスタンダード曲を、彼らの境地で新たな作品として演奏することが売りのひとつであった。しかし、この作品はCD2枚全編にわたってオリジナル曲、その多くがトリオ編成によるインプロヴィゼーション(即興演奏)、で占められている。彼らとは設立時からの付き合いであるECMレコードは、この作品をカタログナンバーで1800番目という、ひとつの節目の作品として位置づけており、それだけ製作者側のの「気合い」もこめられた作品になっている。
残念ながら、セールスの方は必ずしも好ましくなかったようだが、その点についてECMは確信犯的であったと考えるべきだろう。3人の演奏家たちは、もちろんそんなことを知る由も気にかけることもなく、トリオによる濃密な即興演奏を繰り広げている。内容的にはもう十二分に期待に添うものであることは言うまでもない。「スタンダーズ ライブ」で聴かれた奇跡の連続は、15年の時を経たここでは、より時間的空間的に引き延ばされた芸術に進化しており、あるときは聴くものの集中を促し、あるときはリラックスや楽しいノリをもたらしてくれる。このメンバーによるスタンダードを中心にした最新作「アウト オブ タウナーズ」はなかなかのセールスを記録しているらしいが、僕はそれよりもまだこの作品の方が好きである。
幸運にも、僕はこの演奏が収録された2001年4月24日の東京公演を、渋谷のオーチャードホールで実際に聴くことができた。コンサートは二部構成だったが、いわゆるスタンダード曲の演奏は少なく、スタンダード中心の演奏を勝手に期待していた多くのお客さんを、いい意味で裏切ることになった。僕個人の印象としては、スタンダード曲の演奏になると、3人がどことなくつまらなさそうにしているように見えた(もちろん彼らが手を抜くなどということはあり得ないのだが)。そのくらい彼らの即興演奏は強い印象を残してくれた。
だからそれらが収録された作品にこういうタイトルが付けられているのが、珍しくストレートだなと感じる一方で、彼らの姿勢と自信が感じられて嬉しく思ったものだ。あえて「フリー」という表現を使わずに、こういう表現を用いたところが、芸術家としての姿勢がよりはっきり表されているのかもしれない。以前にも書いたように、この作品はキース=ジャレットトリオとしてではなく、3人のリーダーによる共作という位置づけになっているのも納得できる。それは、即興という「自由」な形で一瞬にして生み出されたことは事実であり、20年近い共演経験という長い「道」から生み出されたこともまた事実である。
気軽に「ながら」で聴ける作品とは言えないかもしれないが、非常に深い味わいのある作品である。こういう音楽を聴ける時間や空間を持てることは、間違いなく「自由」な証である。それは決して与えられるものではなく、自ら作るものなのだろうと思う。
(この作品に興味を持たれた方は、ジャケット写真をクリックしてみてください。アマゾンでこの作品を試聴したり、購入することができます)
ECM Records
キースジャレット通信 キース=ジャレットファンの店主さんによる個人サイト CDレビューやコンサートレポートなど充実の内容です。
尺八の演奏を聴いてみて、あらためて考えたのは「自由」ということだった。風のように聴こえる尺八の演奏は、厳しい「道」のうえに成り立った芸術であることはもちろんなのだが、海童道のようにそうした道を外れてさらなる「自然」を求めた音楽にも、それを含めてさらには西洋音楽の領域までを視野にいれつつ、従来の尺八道を広げようとする横山勝也の音楽にも、共通して「自由」という時間や空間の概念を表現する姿勢を感じずにはいられなかった。西洋音楽のメロディー、ハーモニー、リズムという音楽の要素という観点からは、非常に自由な何か、それは単に僕自身にとっての耳新しいさだけなのかもしれないが、を感じさせてくれた。逆に、フリージャズなど西洋のフリーミュージックが、ともすれば散漫なものに聴こえてしまうのは、そうした「道」の不在によるところが大きいと言えるのかもしれない。
いまの時代、僕たちの生き方は自由なのかと問われれば、なかなか難しい。昔に比べて年齢や性別に起因した伝統的な因襲やしきたりからは、確かにかなり解放されつつある一方で、現代というシステムは、僕らに新たな因襲をもたらしているようにも思える。若い世代はいつの時代にも「自由」を叫ぶ。会社の企画や戦略を議論する場でも、「従来の枠にとらわれずもっと自由に」というような言葉をよく耳にする。それは実行の当事者に向けられているのか、組織や体制に向けられているのか、実際のところは難しい問題である。もちろん「自由」と「道」はそのいずれかが絶対的に存在できるものではないのだが。
今回の作品は、タイトルがとても印象的である。日本語で言えば「いつも自由でいさせてくれ」とでもなるのだろうか。1ヶ月ほど前にとりあげたキース=ジャレットの作品がその代表であったように、この3人による演奏活動はジャズのスタンダード曲を、彼らの境地で新たな作品として演奏することが売りのひとつであった。しかし、この作品はCD2枚全編にわたってオリジナル曲、その多くがトリオ編成によるインプロヴィゼーション(即興演奏)、で占められている。彼らとは設立時からの付き合いであるECMレコードは、この作品をカタログナンバーで1800番目という、ひとつの節目の作品として位置づけており、それだけ製作者側のの「気合い」もこめられた作品になっている。
残念ながら、セールスの方は必ずしも好ましくなかったようだが、その点についてECMは確信犯的であったと考えるべきだろう。3人の演奏家たちは、もちろんそんなことを知る由も気にかけることもなく、トリオによる濃密な即興演奏を繰り広げている。内容的にはもう十二分に期待に添うものであることは言うまでもない。「スタンダーズ ライブ」で聴かれた奇跡の連続は、15年の時を経たここでは、より時間的空間的に引き延ばされた芸術に進化しており、あるときは聴くものの集中を促し、あるときはリラックスや楽しいノリをもたらしてくれる。このメンバーによるスタンダードを中心にした最新作「アウト オブ タウナーズ」はなかなかのセールスを記録しているらしいが、僕はそれよりもまだこの作品の方が好きである。
幸運にも、僕はこの演奏が収録された2001年4月24日の東京公演を、渋谷のオーチャードホールで実際に聴くことができた。コンサートは二部構成だったが、いわゆるスタンダード曲の演奏は少なく、スタンダード中心の演奏を勝手に期待していた多くのお客さんを、いい意味で裏切ることになった。僕個人の印象としては、スタンダード曲の演奏になると、3人がどことなくつまらなさそうにしているように見えた(もちろん彼らが手を抜くなどということはあり得ないのだが)。そのくらい彼らの即興演奏は強い印象を残してくれた。
だからそれらが収録された作品にこういうタイトルが付けられているのが、珍しくストレートだなと感じる一方で、彼らの姿勢と自信が感じられて嬉しく思ったものだ。あえて「フリー」という表現を使わずに、こういう表現を用いたところが、芸術家としての姿勢がよりはっきり表されているのかもしれない。以前にも書いたように、この作品はキース=ジャレットトリオとしてではなく、3人のリーダーによる共作という位置づけになっているのも納得できる。それは、即興という「自由」な形で一瞬にして生み出されたことは事実であり、20年近い共演経験という長い「道」から生み出されたこともまた事実である。
気軽に「ながら」で聴ける作品とは言えないかもしれないが、非常に深い味わいのある作品である。こういう音楽を聴ける時間や空間を持てることは、間違いなく「自由」な証である。それは決して与えられるものではなく、自ら作るものなのだろうと思う。
(この作品に興味を持たれた方は、ジャケット写真をクリックしてみてください。アマゾンでこの作品を試聴したり、購入することができます)
ECM Records
キースジャレット通信 キース=ジャレットファンの店主さんによる個人サイト CDレビューやコンサートレポートなど充実の内容です。
10/03/2004
横山勝也「ZEN(禅)」
インターネットのおかげで、情報を探し出すテクニックを少し身につけると、本当にいろいろな音楽を手に入れて聴くことができるようになった。新しいキーワードを手に入れれば、それをもとに検索するとまた新しい出会いをいとも簡単に得ることができる。いろいろな人が言っているように、交通手段の発達が物理的な移動に関する可能性を高めたのに対し、インターネットは何かを探すことに関する可能性を飛躍的に高めてくれた。別の言い方では、出会いの場やきっかけを増やしてくれたということもできるだろう。
自分でもそのことがとても楽しくなり始めた頃、たぶん結婚するよりも前だったと思うが、そうは言ってもたぶん自分の興味という観点から、こちらから積極的にアプローチすることはないだろうな、と思っていた音楽の分野が3つあった。それは、声楽、演歌、そして純邦楽の3つだった。まあもちろんこれは当時の僕の偏見だったわけで、いまはそんなことはなくなってしまった。あえていうなら声楽のなかでオペラだけはいまだにCDを買ったことがないくらいだろうか。そして、最近はもっぱら尺八がブームである。この1週間の間に既に5つのCDを入手し、うち4つはネットでの購入である。川崎や渋谷のお店を歩き回っても、本やCDを見つけ出すのは容易ではない。僕のような人間にとっては、インターネットはこのうえもなくありがたい道具である。
前回のろぐで、海童道祖の作品を紹介した。そのCDを購入した際、同時に購入したのが今回の作品、横山勝也の作品集である。前回も書いたように、この作品はもともと日本のレコード会社RCAビクターが製作したものを、ドイツの現代音楽専門レーベルWERGOが海外での販売権を買って、リリースしているものである。日本国内では、「尺八の遠音〜横山勝也尺八古典名曲集成1、2」というタイトルのLPレコードで、1978年にリリースされている。ともかくこの手の情報は日本国内のインターネットサイトでは極めて不足しており、また十分な整理がなされていない。却って海外のサイトからの方が良質な情報を得られるというのは、なんとも皮肉な話である。
横山勝也は現時点でご存命の演奏家としては最も重要な人物の一人である。彼の生い立ち等については他のサイトにあるのでそちらをご覧いただくとして、彼の名が直接邦楽に興味を持たない人、とりわけ海外にも知られているのは、日本の現代音楽家、武満徹の作品「ノヴェンバーステップス」他での演奏に負うところが大きい。それが発表された1960年代半ば以降、尺八は海外での人気を高める一方で、日本国内での人気は一般的に見ていまひとつというところではないかと思う。それは、先ほども書いたように、実際に街のCDショップや本屋さんで関連した商品を探してみればすぐにわかることである。
ただ、もちろん残念なことであるが、マスメディア的な人気は博しても短命に終わるもので、最悪の場合本質を疲弊させるだけで終わってしまう危険性もあるから、個人的にはこういうものはインターネット的な意味での人気、草の根的にしっかりと支えられた存在とでも言えばいいのか、となって欲しいと思っている。その意味で、海外ではそうしたものが定着つつあることは心強いと思う。
まったくの偶然だったとはいえ、海童道の作品とこの作品を同時に購入した僕はラッキーだったと思う。海童道の方が、ある意味アヴァンギャルドな人間的魅力に満ちている一方で、この作品では伝統的な尺八の魅力を堪能することができるからだ。その対比がとてもよく理解できた。好みの問題はあるだろうが、僕は横山勝也の演奏については、純邦楽をほとんど聴いたことのない人でも、一度聴けばすぐに心地よく感じられるのではないかと思う。
思いがけず純邦楽の作品が続いてしまった。これとは長い付き合いになりそうだ。
Internatinal Shauhachi Societyにある横山勝也の略歴とディスコグラフィー(英文) 大変よく整理されてます。日本語ではこういうサイトはありません。
Wergo ドイツの現代音楽専門レーベル
自分でもそのことがとても楽しくなり始めた頃、たぶん結婚するよりも前だったと思うが、そうは言ってもたぶん自分の興味という観点から、こちらから積極的にアプローチすることはないだろうな、と思っていた音楽の分野が3つあった。それは、声楽、演歌、そして純邦楽の3つだった。まあもちろんこれは当時の僕の偏見だったわけで、いまはそんなことはなくなってしまった。あえていうなら声楽のなかでオペラだけはいまだにCDを買ったことがないくらいだろうか。そして、最近はもっぱら尺八がブームである。この1週間の間に既に5つのCDを入手し、うち4つはネットでの購入である。川崎や渋谷のお店を歩き回っても、本やCDを見つけ出すのは容易ではない。僕のような人間にとっては、インターネットはこのうえもなくありがたい道具である。
前回のろぐで、海童道祖の作品を紹介した。そのCDを購入した際、同時に購入したのが今回の作品、横山勝也の作品集である。前回も書いたように、この作品はもともと日本のレコード会社RCAビクターが製作したものを、ドイツの現代音楽専門レーベルWERGOが海外での販売権を買って、リリースしているものである。日本国内では、「尺八の遠音〜横山勝也尺八古典名曲集成1、2」というタイトルのLPレコードで、1978年にリリースされている。ともかくこの手の情報は日本国内のインターネットサイトでは極めて不足しており、また十分な整理がなされていない。却って海外のサイトからの方が良質な情報を得られるというのは、なんとも皮肉な話である。
横山勝也は現時点でご存命の演奏家としては最も重要な人物の一人である。彼の生い立ち等については他のサイトにあるのでそちらをご覧いただくとして、彼の名が直接邦楽に興味を持たない人、とりわけ海外にも知られているのは、日本の現代音楽家、武満徹の作品「ノヴェンバーステップス」他での演奏に負うところが大きい。それが発表された1960年代半ば以降、尺八は海外での人気を高める一方で、日本国内での人気は一般的に見ていまひとつというところではないかと思う。それは、先ほども書いたように、実際に街のCDショップや本屋さんで関連した商品を探してみればすぐにわかることである。
ただ、もちろん残念なことであるが、マスメディア的な人気は博しても短命に終わるもので、最悪の場合本質を疲弊させるだけで終わってしまう危険性もあるから、個人的にはこういうものはインターネット的な意味での人気、草の根的にしっかりと支えられた存在とでも言えばいいのか、となって欲しいと思っている。その意味で、海外ではそうしたものが定着つつあることは心強いと思う。
まったくの偶然だったとはいえ、海童道の作品とこの作品を同時に購入した僕はラッキーだったと思う。海童道の方が、ある意味アヴァンギャルドな人間的魅力に満ちている一方で、この作品では伝統的な尺八の魅力を堪能することができるからだ。その対比がとてもよく理解できた。好みの問題はあるだろうが、僕は横山勝也の演奏については、純邦楽をほとんど聴いたことのない人でも、一度聴けばすぐに心地よく感じられるのではないかと思う。
思いがけず純邦楽の作品が続いてしまった。これとは長い付き合いになりそうだ。
Internatinal Shauhachi Societyにある横山勝也の略歴とディスコグラフィー(英文) 大変よく整理されてます。日本語ではこういうサイトはありません。
Wergo ドイツの現代音楽専門レーベル
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