4/25/2004

尾崎豊「ラスト ティーンエイジ アピアランス」

尾崎豊: 「えぬろぐと僕のこと」にもあるように、僕が大学に5年間通うことになったのは、まあ端的に言っていわゆる「5月病」だった。独力で現役合格をしたのだから受験勉強への打ち込みはそれなりだったし、一方で大学への期待が自分のなかで先走っていたりした。だから共通一次試験で高得点をとったとしても、まだまだ何も知らなかった僕にとって、キャンパスライフというか親元を離れての独り暮らしが、それなりの作用をもたらすにはまったくもって時間がかからなかった。いわば即効だった。

 5年間の大学生活を経済的に支えてくれたのは、親からの仕送り、そしてアルバイトによる収入だった。僕の学生アルバイト職歴のおよそ8割はいわゆる「家庭教師」だった。これに関しては、いま思えばちょっと安易で軟弱であったかなと思う。家庭教師のアルバイトは、4年間世話になった私営学生寮の管理人の爺さんがご近所から頼まれたものとか、大学の友達の紹介とか、結構たくさん依頼があった。

 2ヶ月ですぐクビになったケースも含め、僕は6件の家庭教師を担当させてもらった。そのなかに、中学3年生から高校3年生までのほぼ4年間にわたって、勉強の面倒を見させていただいた女の子がいる。名前はアキちゃんといった。高校に合格した時点で、一旦終了になったのだが、高校1年生の1学期の成績を見たお母さんが、再び僕に電話をかけて来たのだ。厳密には4年間といっても半年余のブランクがある。

 僕が早々と留年を決めて迎えた2年生の春に、体育の再履修(1年生の後期はほとんど大学に行かなかったので、出席点のみの体育でさえ落としていた。僕が通っていた大学ではこれを落とすと自動的に留年が決定する)で知り合った、留年仲間の一人と学食で飯を食っているときに、僕に家庭教師をやらないかと話を持ちかけてきた。彼が面倒を見ていた子の親友が、受験勉強を見てくれる家庭教師を捜しているというのだ。

 その彼と彼の教えていた子(名前は確かあやちゃんといった)とその親友のアキちゃん、そして僕の4人で、はじめて顔合わせをしたのは、彼ら3人が住んでいた大阪の茨木市の阪急茨城駅前の喫茶店だった。お店のことはもう完全に忘れたが、そこを指定したのは彼女たちだったらしい。お店を出る時に紹介してくれた僕の友人は「中学生の時に友達とサテンなんか行っとった?」とボソっと僕に聞いた。当時、和歌山の田舎の中学生が友達同士で喫茶店に出入りする回数は、家で母親がプリンやゼリーを作ってくれる回数をはるかに下回ることは明らかである。

 彼女たちは中学3年生だから当時14か15歳、僕たちとは5つ離れていた。どちらかと言えば文学的な外見のあやちゃんに対して、アキちゃんはつい最近まで長らくガールスカウトで活躍していたとのことで、まるで男の子の様な活動的な感じだった。お店を出てすぐに僕は彼女の家に行き、お母さんにご挨拶をして、そのまま家庭教師第1日目となった。

 大きな家の2階に8帖くらいの自分の部屋を持っていた。部屋に入ってすぐに壁に貼られていた、男性タレントのポスター2枚が僕に鋭い視線を向けた。「あれは誰?」という問いに彼女は「京本さん、知らん?」と答えた。テレビとか芸能界と無縁の生活を送っていた僕は、京本政樹氏のことは全く知らなかった。まあ仕方ない。こうして京本さんの厳重な監視のもと、アキちゃんとのお勉強は始まった。

 僕の大学生活は本当に音楽三昧だった。会社に入って、自己紹介で学生時代はバンド活動とレコード収集に明け暮れましたというと、必ず何人かの先輩は「バンドやってるとモテただろう」と言った。しかし、実際にはガールフレンドと言えるような人はとうとう一人もできなかった。自分には姉も妹もいなかったし、その意味では彼女の家庭教師を務めさせてもらった4年間は、その頃の僕に不足していた要素を、最低限なにかしら補ってくれていたのかなといまにしては思える。

 ある日、彼女が高校に入る前か後かは忘れたが、部屋に通されると京本さんが突然解雇されていた。代わりに別の意味でこれまた眼光の鋭い青年がこちらを見つめている。仕方なく「あれは誰?」と聞くと「尾崎さん。京本さんはもうバイバイやねん」という答えが返ってきた。これが僕の尾崎豊との出会いだった。僕の周りで尾崎豊の名を聞くようになったのは、それからしばらくしてからのことになる。

 彼女が目指した公立高校に合格させてあげることはできなかった。それでも短大の付属高校に入学して、僕は彼女の勉強の面倒を週1のペースでみることになったわけだ。高校1年生の冬には彼氏もできて、僕と入れ替わりに彼が帰るということもあった。こたつのなかに猫のニャン吉がいるのを知らずに足を入れた僕が、びっくりして中を覗き込んだら、彼女のスカートのなかが見えたこともあった。バレンタインデー前には、手作りチョコの実験台にさせられ、2年生になると「私もバンドやるねん」と言い出し、勉強後にお母さんが出しくれる晩ご飯をいただきながら、ベースの弾き方も教えた。3年生になると、部屋でタバコにまでつきあっていた。(アキちゃんのお母さんスイマセン!)。

 ある時には、大学生の下宿というものを見てみたいと言い出し、僕の住んでいた寮の話をすると、お母さんにお願いして僕の下宿に勉強しにきたことがあった。風呂、トイレ、玄関までが共同という当時既に築30年のボロアパートを、学校帰りの彼女が訪ねてきたのだが、(たいそう女好きだった)管理人の爺さんが舞い上がって、お茶とお菓子を差し入れてきたりした。彼女を駅まで送って僕が帰ってくると、爺さんが「いやあタマげた。ワシももう長いことここでやっとるが、セーラー服の女学生を連れ込んだのは、アンタがはじめてじゃ!」とまったく見当外れの賞賛を浴びせられ、おっちゃんそりゃちょっと違うんやでと説得しようとしたが、面倒になってやめた。

 僕が就職を決めた夏、アキちゃんも短大に進学せずに就職することを決めた。その年のゴールデンウィークに帰省したついでに、僕は彼女と1度だけ大阪で再会したが、いまどこで何をしているのかは知らない。学生結婚だったご両親のように早く結婚したいとか言っていたが、彼氏とその後どうなったのかはわからない。ともかく、その4年間にほぼ時を同じくして、尾崎豊は突如として音楽シーンに出現し、あっという間に伝説を築き上げたのだ。このライブ作品はその伝説が完成した10代最後の瞬間を記録したものだ。僕はこの時期までの彼のレコードを大抵アキちゃんに借りてテープに録って聴いていた。気がつけば、男の子のような少女も大人の女に変わろうとしていた。

 尾崎豊について知らぬ人はほとんどいないと思う。いろいろな音源、映像、書籍、記事、解説、逸話、賞賛、偏見、目論見、等々が溢れている。僕はそれについて語るつもりはない。ここに昔の思い出とともに、この作品を取り上げておくことで、僕にとっては十分かと思う。そして、それはいまから12年前の今日だった。僕は上京して4年目、仕事もそこそこジャズを中心にCD集めも絶好調だった。突然舞い込んだ彼の訃報は、僕にとっても大きなショックだった。そしてとても残念に感じた。

 昨日、病院に通う途中でどういうわけか急に彼の歌を思い出し、その頃のことを思い出すと、無性に聴いてみたくなった。そこでいま入手可能な作品を一通り眺めて、迷わずこの作品を購入した。僕にとってはこれだけで満足だし、この先これを手放すこともないだろう。


永遠の尾崎豊データベースHP

尾崎ハウス 尾崎豊が最後を迎えた民家(存続が決定したようです)
Ozaki Yutaka.net 他にも公式サイト的なものがたくさんあるようです
茨木市 大阪府茨木市

4/17/2004

セシル=テイラー「ダーク トゥ ゼムセルブス」

Cecil Taylor Unit:  昨日、妻の職場の同僚の方に、東京の下高井戸にある「爺(じじぃ)」という小料理屋にお招きいただいた。この人も大した音楽好きで、先週一度、妻と3人ではじめてお食事をしたのだが、音楽談義が不完全燃焼に終わったため、急遽、別途デュオセッション開催のご提案をいただき、快諾させていただいた。会場は、彼が昔住んでいたという下高井戸にある、馴染みのお店が選ばれた。マスターこだわりの素晴らしいお魚料理と焼酎セレクションがイケルお店である。今回はなかなかその方面の話もはずみ、たまたま来店されていた彼のお友達も交えて楽しい時間を過ごさせていただいた。

 下高井戸ははじめての街だった。ラーメン屋さんとたいやき屋さんが目立つ、意外にこじんまりとした街だ。東急世田谷線にもはじめて乗った。通っている病院がある田園都市線高津駅から向かったのだが、同じ東急線のはずなのに切符売り場の路線図に情報がない。駅員さんに尋ねてみて、それが均一料金制の路面電車であることを知った。なかなかの風情である。もっと長く乗っていたいと思った。路面電車で横浜、横須賀、鎌倉と通りぬけて、伊豆あたりまで行けたら楽しいだろう。

 宴たけなわになったのが、さすがに終電車の時間が近づいたので、僕は中座させていただいた。ところが、結果的に最後の2駅は歩くはめになった。ちょっと近道しようと入る路地を間違えてしまい、引き返そうとした拍子に、何年ぶりかで派手に転んでしまった。左の手のひらにこれまた何年ぶりかで擦りむき傷をつくってしまうというおまけ付きで、家にたどり着いた。まあそうそういいこと楽しいことばかりでは気持ち悪いので、この傷はよいおまけとしておく。

 音楽の収集にも突然のつまづきがあることは、前回のろぐにも書いた。今回の作品の演奏者であるセシル=テイラーをはじめて聴いたとき、僕にとっては宝物を発見したときのような喜びであった。しかし、多くのジャズ収集家で「フリーは聴かない」という方のコレクションにも、セシル=テイラーは必ず1枚ある。少なからずのコレクターにとって、その存在はコレクション上の事故であり傷痕となっていると思う。

 ○○レーベルBest100などという企画は、LP時代にもCD時代にも何度となく行われて来た。ブルーノートが日本ではじめてCD化された時も、「ブルーノートCDスーパー50」という企画で気勢をあげた。当時大学生だった僕もこれを全部そろえようか真剣に考えたものである。CDで本格的にジャズを聴きはじめた僕らの世代にとっては、ブルーノートへの扉を開く大きなきっかけとなった。

 その50枚のなかに、セシル=テイラーの「コンキスタドール」が入っていた。もちろんこれはその価値がある傑作であり、ブルーノートの1000タイトルにおよぶ傑作群のなかから、あえてこれをセレクトした企画担当者殿はエラい。しかし、キャノンボール=アダレイの「枯葉」に聴き入り、バド=パウエルに胸を踊らせ、アート=ブレイキーのジャズメッセンジャーズに酔いしれ、と、わくわくドキドキのジャズ体験を始めた人が、「次はどれを買おうかなー」でコンキスタドールを引いてしまったとしたら、そこに気の毒な結果を想像することは決してアンフェアなことではない。事実、僕の知人にも「最悪や〜」と被害報告を電話で寄せて来た人がいる。彼のコレクション棚の奥にいまもその傷跡は残っているはずだ。

 この作品は、1976年7月、ユーゴスラビア・ジャズ・フェスティバルでのライブ録音である。フロントには、往年の盟友、アルトのジミー=ライオンズ、トランペットのラフェ=マリクの2名に加えて、テナーに、なんといまや21世紀ヨーロピアン・フリーの旗手とも言えるデヴィッド=S.ウェアの若き日の勇姿を聴くことができる。そしてドラムがマーク=エドワーズという5人編成。ベースはいない。演奏は"Streams and Chorus of Seed"と題された1曲のみ。僕はテイラーのCDは十数枚持っているが、いまのところ一番の傑作はこれだと思っている。昨日もこれを聴きながら世田谷線に乗り、下高井戸の街でコーヒーを飲んだ。気分は最高であった。

 彼の音楽はそのスタイル上、フリーといわれているが、実際にはかなり綿密な作り込みがなされている。このようなユニット作品でも事前に相当な時間をかけた音合わせが行われるのだそうだ。「ジャズの10月革命」を象徴するマイケル=マントラーの「ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ」でも、テイラー氏は重要な役割を担っているが、作品の中ジャケットに彼の演奏している手を斜め後ろから捉えた有名な写真がある。本来なら楽譜を並べるところに、雑誌のグラビアなどの写真があたかも楽譜であるかのようにちりばめられているのだ。これはイカしている。

 ちょっと二日酔い気味なのと、最近ややろぐが冗長気味だったので、今回はこの辺にしておく。

Cecil Taylor
Cecil Taylor Sessiongraphyセシル=テイラーの全演奏記録を網羅したデータベース(お見事!)
David S. Ware
Michael Mantler(Jazz Composers Orchestraのスコアもあります!)
東京急行電鉄

おまけ:デジカメの写真を整理していたら、2、3週間前に近所のお寺で撮影したしだれ桜の写真が出て来た。(実物はもう少し見事な感じであったのだが・・・)
sakura

4/10/2004

ギャングスター「デイリー オペレーション」

GANG STARR:  新しいことが始まる時期だ。新しい学校、新しいクラス、新しい職場、新しい役割、新しい社会。すぐに馴染める人、そうでない人。なかなか新しい波に乗るコツがつかめないまま模索が続くこともある。僕は自分では気難しい一面と、エーイままよと飛込む面と、両方持ち合わせているように思う。以前の僕は気難しい方が強かったと思うのだが、少しは成長したのだろうか。コツはいまだに運任せである。

 僕は独身の頃、横浜の磯子というところに8年間ほど住んでいた。ここは埋立地のうえにできた工業地帯と、海を臨む高台の住宅街からなる街で、近くにはアメリカ海軍の住宅などもあった。僕が住んでいたのは埋立地にある安いワンルームマンション、僕が生まれてはじめて住んだ鉄筋の建物だ。目の前にある道路の通称が「産業道路」で、その名の通りかなり殺風景で不便なところだったのだが、8年間もいたなりに気に入っていたのだと思う。

 その間に僕の音楽的興味は、ジャズからハウス、テクノ、ヒップホップ、アンビエントへと拡大した。1990年代後半になるとジャズに面白いものが出てこなくなり、かと言ってクラシックにはまだうまく入れなかった。たまたま買ったカルチャー雑誌の特集で、ブームになっていたテクノのことを知り、そこに紹介されていた代表作を次々に買い集めた。また世の中はインターネット黎明期で、自分でもMacや電子音楽の機材を手に入れて曲を作ったりもしていた。磯子の殺風景な土地柄の影響もあったのかもしれない。

 ある時、音楽クリエイタ向けの雑誌で、日本人ヒップホップアーチストDJ KRUSHのことを知り、はじめてヒップホップのカッコよさを知った。彼のことはいずれまたとりあげる機会があると思うのでここでは書かない。僕が惹かれたのはヒップホップが本来持っているサウンドだった。それまで、スクラッチやラップは知っていても、ただのイメージでしかなかった。この辺はいろいろと定義が難しいのだが、ラップやヒップホップは本来「貧者の音楽」で、その意味では現代のブルースでありジャズである。しかし主役となる楽器は、ギターやサックスから一変し、レコードとターンテーブルが主役になった。そして忘れてはならないのが、サンプラーの存在である。

 ヒップホップのサウンドは、基本的に自分で楽器を演奏することはしない。音楽産業がばらまく大量のソース(レコード)から盗む、と書くと良くないので、イタダクのである。それもどこから拝借したかで面倒なことが起こらないように、短いフレーズに切り刻まれ、音質を悪くしたりしてサンプラーに放り込んでしまう。曲の命とも言える一番重要なリズムを決めたら(サンプルのループの時もあるし、自分でリズムマシンを叩いて打ち込場合もある)、それにあわせて日頃から集めた、ご機嫌なサンプリングフレーズを練り込んだり、まぶしたりするわけだ。これでトラック(バックの演奏)が完成する。

 このうえにのせる息吹きというか生演奏に相当するのが、ターンテーブルによるスクラッチ(シュー、キュキュッ、キューとかいうやつ)、そして歌に相当するのが下町の黒人たちの言葉遊びだったラップである。ラップそのものの社会的背景を知りたい方には、エミネム主演の映画「8Miles」がおすすめだ。ここまでが本来のヒップホップの粗暴でシビレる毒々しさのエッセンスである。いくら商業的に成功したからと言って、ここに有名ギタリストのゲスト演奏やメロディの歌うボーカルやらコーラスをのせるのは、もはやヒップホップではなくただのポップスでしかないと僕は思っている。

 さて、いろいろな音楽を聴く者にとって、新しく飛込んだジャンルで苦労するのが、CDの探し方である。その頃、既に多くのCDショップは、ヒップホップを独立したコーナーにしはじめていた。DJ KRUSHの音楽でヒップホップサウンドの魅力に取り憑かれた僕は、その観点でいざショップに行ってチャートインのCDを買って聴いてみたのだが、その多くはもはや違っていた。ヒップホップはすでに商業モードに入っており、多くは先に書いたような意味でのポップスになってしまっていたのだ。

 しばらく迷走と失敗が続いた。クラブに行くには歳も歳だしヒップホップ系のお店はなんとなく近寄りがたい。ヒップホップ専門のレコードショップに行ってみても、なかなか居心地が悪くお店の人にもどう聞いていいものかわからなかった。職場には、ジャズやクラシックにある程度詳しい人はいたが、ハウスなんか聴いている人はいなかった。「本当にカッコいいヒップホップは、誰のCDを聴いたらいいのかなー」。意外にも僕のヒップホップ入門は挫折して、しばらくは途方に暮れる毎日だった。

 しかし、キッカケは意外なところで突然、僕のすぐ脇に腰掛けてきたのだった。

 ある夜、仕事仲間と会社の近くで一杯やって、くだらない話に興じて終電近い電車に乗って帰った。頭はかなりフラってた。電車が横浜駅に着いたとき、僕より若いサラリーマン風の男女が電車に乗って来た。僕の隣の席が1つ空いていたので、男は女をそこに座らせた。どうやら女の方が職場の先輩で男は新入りらしい。男は僕と同様に結構酔っていて、意識はしっかりしているが身体には結構キテいたようだ。女は酒に強いのかそれほどでもないようだった。つり革にだらんとしがみついた男と、座席で足を組んで男を見上げる女の間で、こんな会話が始まった。

 ・・・
「ちょっと大丈夫?藤野クン」
「あ、だいじょうっぶっすよ。酒は自信あんですけど、ちょっと足にキちゃいましたね。でもエミさん、あれっすね、酒強いっすねぇ」
「ウフフフ、会社入ったばっかりの頃は、そうでもなかったんだけどね。遊びすぎかな」
「課長とかも、エミさんは別格とか言ってましたヨ」
「まあ失礼な、っまいいけど。でも、明日はお休みだからゆっくり寝れるわね。明日は何するの?」
「そうっすねー、うーん、車とか洗わないとなー。もうだいぶん乗ってないっすよ」
「そう、車好きなんだ」
「エミさんは何すんですか、明日」
「ふっ、わたしのことは聞かないでぇー」
「あ、すんません」
「冗談よ。でもなにしようかなー。夜はまた飲みだなー」
「あ、誰だったかな、誰か言ってましたよ、エミさん音楽とか結構好きらしいっスね」
「うん、まあね」
「何聴くんスか」
「私はねぇ、あんまり売れてるやつより、クラブとかそういうので流れてるやつかなあ。ってわかる?」
「うー、あんまりわかんないっす。クラブとかよく行くんすか?」
「うん、割と行くわよ。楽しいよ」
「ふーん、俺はあんまり音楽詳しくないっスよ。例えばどんなのがいいんすかね」
「いまはねぇ、ラップとかかな」
「ラップですか。よくわかんないけど、なんかスゴイっすね」
「私、けっこう何ていうか、本格的っていうのかな、ホンモノ指向っていうのかしら。あんまり売れちゃってチャラチャラしてるのはキライなのよね」
「へぇ、そうなんですか」
「この前もね、アメリカ軍の人とかが集まるパーティーがあってね、連れてってもらったんだけど。そのときに向こうの人と話してたの。そしたら音楽の話になって、何聴くの?っていうから、私が好きなラップ、っていうかヒップホップかな、それに『ギャングスター』っていうのいるんだけど、知ってる?」
「いや、知らないっス」
「っま、本格的っていうか結構本物的で私好みなんだけどー。そしたらその黒人の人とかにギャングスターが好きだって言ったら、びっくりされちゃってさー。他の人とかに『おいおいこの女、ギャングスター聴くんだってさ』とか珍しがられちゃったのよね」
「へえ、なんかスゴイっすねー、エミさん」
 ・・・

 横浜からいくつ駅が過ぎたのかはわからなかった。それまで、藤野君同様に酔って気持ち悪そうにほとんど動かずじっと座っていた僕が、突然動き出したかと思うとカバンからメモ帳を取り出したのには、2人も少しびっくりしたようだった。メモ帳の明日の予定欄(真っ白だった)にいきなりボールペンで「GANG STAR」と殴り書きしたのを、隣のエミさんが見ていたかどうかはわからない。翌日、いまはもう閉店した伊勢佐木町の丸井に入っていたバージンメガストアのヒップホップ売り場で、僕はギャングスターのコーナーを見つけ、このCDを買った。

 ギャングスターはDJ Premierの作り出すサウンドと、The GURUの書くリリック(ラップ)からなるヒップホップユニットである。彼らのサウンドは実際にCDを聴いていただくとして、リリックからその雰囲気を伝える意味で、このアルバムで僕が一番好きな曲「THE ILLEST BROTHER 」のサビの部分を引いておこう。

  GOT TO BE THE ILLEST BROTHER
  TO CLAIM RESPECT
  IT TAKES THE ILLEST BROTHER
  JUST TO GET THE RESPECT
  GOT TO BE THE ILLEST BROTHER
  WHEN IT'S TIME TO GET WRECK
  GOT TO BE THE ILLEST BROTHER
  WHEN I GET MY MIC CHECK

 THE ILLEST BROTHERにぴったりくる日本語を考えてみたが・・・うー、難しいっスね。これは感じるしかないようだ。僕がはじめて聴いたDJ KRUSHのアルバムに、実はギャングスターの2人がゲスト参加していたことを知ったのは、もうしばらく後、僕がヒッピホップのことをある程度知ってからのことである。まあ現実はそんなものなのだ。目の前にきっかけはあるのだが、簡単には見せてもらえないのだ。それを人生の楽しみと思えればベストなのだが、難しいものだ。

 ともかく、こうして僕は自分にとってのヒップホップを楽しむコツを手に入れることができた。エミさんがどんな顔をした女性だったのか見ていなかったのでわからないが、僕の左肩から伝わってきた彼女の声と雰囲気はいまでも覚えている。

GANG STARR
DJ KRUSH Official Web Site
横浜市磯子区ホームページ

4/04/2004

マルク=アンドレ=アムラン「コンポーザ ピアニスト」

Marc-André Hamelin:  満開の桜を眺める。葉も出ないうちから、小さな花があれだけ大きな木の枝ぶり一杯に咲き魅だれる。不思議な植物である。日本では、桜は新しい門出のイメージになっている。もちろん時節が重なっていることからくるイメージなのだろうが、華やかな花で始まり、葉をのばして光や外気を吸収し、それが枝を成長させ、木を成長させる。小さな花がたくさん集まり、大きな木全体の美しさを演出する。そうしたことが社会のなりたちとか発展のイメージに重なっている様にも思える。

 僕自身は数年前から、桜の花を見ると、それとは別のあるイメージに取り憑かれるようになった。それは「匠」とか「技術」というイメージである。あまり深い話ではないのだが、遠くから見る美しい桜の木が、木の真下まで近寄ってみると、精巧な一つ一つの花の集まりになっている。テレビ東京で放映中の番組「美の巨人たち」がお気に入りでよく観ており、そのなかで時折紹介される、絵画作品のディテールからその再現方法の推測が、このイメージの元になっている。昔の芸術家は色を再現するために、様々な顔料や色の調合、画材への付け方など様々な技を研究し開発してきた。満開の桜に遠くから近づくたびに、そこに宿る表現技巧師の存在をイメージしてしまうのである。還元主義的だと思われるのは不本意なのだが。

 僕自身の絵心は最悪だが、子供の頃熱中したプラモデルづくりで、そうしたことを少しばかり研究した過去がある。プラモデルは、部品をきれいに組み立てて、色を塗って、シールを貼る、ここまででももちろん技術が必要なのだが、本当の楽しみはここから始まる。いわゆる「ヨゴシ」の表現である。実戦にまみれた戦車の泥、埃、弾痕、煤、錆こうしたものを塗料やその他の材料でどう表現するか、これが醍醐味なのである。

 レーシングカーのプラモデルを組み立てるのに、赤いポルシェだからといって、ボディーを単に赤く塗るだけでは浅い。まずは暗い銀色でボディーなどを塗装し、そのうえから別な種類の塗料で赤く塗る。何故か。答えは簡単で、最初の銀色は金属そのものの色なのである。こうしておくと、後から実際のレースでつく細かな傷を再現するとき、実際に針などで引っ掻いたりすれば、車と同じイメージの塗料のはがれ痕が再現される。実際、傷を後から筆で描こうとしても、容易でないことはやってみればよくわかる。ものを再現するにはその成りたちに立ち返ることも重要なのだ。

 音で何かを表現するという場合は、また事情が違ってくる。そもそも音楽表現は色や風景など絵画的な表現についても、また感情や思想のような文学的な表現についても、主たる表現手段ではない。そうした視覚や言葉のような直感性を持たないことが、逆に精神性など抽象的な領域の表現として、人の心をとらえて離さないのだと思う。

 西洋音楽が音楽の歴史の中心といえるかどうかという議論は、実のところなかなか難しいと僕自身は思っている。12音階による音律(メロディー)、短調長調などの和声(ハーモニー)、4/4やワルツなどの拍子(リズム)という音楽の3要素についての理論を整理したことと、意外に忘れられがちなのが、様々な種類の楽器とその演奏技法を発展させてきたことが大きな貢献(成果?)だろう。そして、その中で出てきたもう1つの側面は、作曲と演奏という「分業」をもたらしたことではないかと思う。ここではあまり多くは書かないが、この分業は、システムとしての規模を大きくするには好都合であるが、作品などの本来の所為の内容に著しい影響をもたらしていることは事実である。どちらかというと、それはいま悪い方向に振れてしまって、その揺り戻しが始まっている時代ではないだろうか。それは、もちろん音楽に限ったことではないだろう。

 今回の作品はいわゆるクラシック音楽である。演奏しているカナダ出身のピアニスト、マルク-アンドレ=アムランは今年42歳。彼に対するその筋の人たちの評価は二分されている。「技巧に裏付けられた芸術性」そして「器用貧乏」である。タイトルの意味は「作曲家–演奏家」である。つまり、自ら優れたピアニストであり作曲家でもあった人、ということなのだが、モーツアルトもベートーベンももっぱらピアノを使って作曲していたという意味では、これに当てはまらなくもないのだが、ここでいうピアニストとはもう少し時代が進み、先ほどの意味での分業が進んだ19世紀後半から20世紀時代の人たちである。ピアノ音楽はショパンの登場で一つの完成されたスタイルを現した時代であり、その背景にピアノという楽器そのものの技術的確立があったことを忘れてはいけない。

 収録されている「作曲家-演奏家」はゴドフスキー、スクリャービン、ソラブジ、アルカン、ラフマニノフ、ファインバーグ、ブゾーニ、メドネル、そしてアムラン本人である。さて皆さんはこの中の何人の名前をご存知だろうか。音楽の教科書に名前が出ているのは、ラフマニノフとスクリャービンの2人、一般に名前が知られているのは、NHKの番組で一躍有名になったフジコ=ヘミングやデビッド=ヘルフゴット(彼の物語は「シャイン」という映画でご存知の方も多いだろう)のレパートリーとして有名になった、ラフマニノフだけだろう。残りの人たちに対するその筋の人の評価は、アムラン同様にある意味厳しいらしい。

 例えばゴドフスキーは、自身の作品以外にも、ショパンをはじめ多くの先代作曲家作品の変奏曲を熱心に発表している。まだ未完成だった時代のピアノ曲を完成された時代のピアノ曲として作り直してみました、とやったところ「冒涜だ!」と一斉に罵声を浴びた。その多くは、いまだCD等で聴くことはできない状況にある。本人以外の演奏家に拒否され続けたこうした人たちの作品を、次々に録音して発表しているのがアムランである。彼らの以降の20世紀後半の西洋音楽は、技巧の限界も超えて(悪い意味でなく)破壊的な方向に進んで行く。世の中にはそのことを認めたがらない人が多い。それは、いま僕たちの意外に身近なところで起こっていることと実は同じなのではないかと思う。

 収録作品は、そうした「作曲家-演奏家」たちの魅力十分の小品ばかり、聴きやすくまとめられているのがうれしい。一応、えぬろぐとしてお断わりしておくが(苦笑)、ここに収録された作品はいずれも決して難解なものではない。みんなが集まるお花見のBGMに使ってもまったく大丈夫である。冒頭のゴドフスキーのトッカータは、16部音符が最初から最後まで途切れることなく展開する。僕はこれを聴くと、頭の中で満開の桜の木をすみずみまでつぶさに観察するような気分になる。桜吹雪を浴びるような気持ちで、この音技巧の吹雪を体感する春というのも一興ではないだろうか。

 「技は巧みなり」


Hyperion Records

Leopold Godowsky
美の巨人たち(テレビ東京)
田宮模型
同社の1/35ミリタリーミニチュアシリーズ