春、新しい門出の時期である。僕にも会社で人事発令があり、4月からは新しい職場で仕事を始めることになった。自分にしてみれば、何かリセットボタンのような気分である。あまり不安や心配はない。会社で僕の隣に座っている女性は、組織の変更などがある度にどことなく嫌な思いがするのだと言う。本人いわく「私は『愛着型』なんです」。家庭、職場、学級、ゼミ、サークル、ご近所さん・・・愛着のわく集まりというのは、本当に理想だ。確かに最近、変化変化と変わることばかり言い過ぎるご時勢だ。「愛着型なんです」という言葉に、少し切ない重みを感じてしまった。
先日の読売新聞で見かけた記事は春にしては寂しい内容だった。学生の自殺が増えているのだそうだ。就職難が原因か?という見出しになっている。少し前から、中高年の自殺は増えていた。リストラとか倒産とかそういうものが原因?と言われている。養鶏会社の会長夫妻の悼ましい事件も記憶に新しい。僕は、就職難やリストラは確かに引き金になっているのかもしれないが、「そんなことならいっそ死んだ方がましだ」という「そんなことなら」が一体どういうことだったのかを考えてみる時、そこにあと少しの客観性があれば、何か違う方向があったのではと思わずにいられない。多重人格では困るのだろうが、自分のなかにいる人間は1人というのも、なんとなく寂しいのではないだろうか。
自宅近所のゴミ捨て場に、こども会の廃品回収だろうか、児童向けの本が数冊、ひもで括られて出されてあった。その一番うえにあったシェークスピアの「ロミオとジュリエット」の表紙絵に、ゴミだらけになっても互いの名を呼び合う二人の悲壮な姿が目に入って、僕には妙に印象に残った。この作品は舞台ではもう何度も上演されているし、映画化もされている。おまけに作品をモチーフにしたパロディやらテレビCMやら風刺画なども含めると、悲劇の恋の物語としてその話を知らないものは日本においてさえ少ないのではないかと思われる。
ちなみに、大阪なんばあたりの路地裏で、風俗店の看板を持って立っているおじさんに訊いてみる。「えー?ロミオとジュリエット?うーん、よー知らんけど、っんーまー知っとるよー。あれやろ、ロミオとジュリエットちゅう男と女がおって、その二人がまあその、なに、愛し合うんやろ。せやけど二人の結婚はまわりから反対されてしもて、アカンようになるんやろ。ほんで、なんやわからんけど、ロミオがジュリエットのうちの窓のとこへ行って『ロミオぉ〜』とか『ジュリエーッと』とかいうてるうちに、ようわからんけど二人とも死んでしまうんやろ」これは、ほぼ正解であろう。(このインタビューはもちろんフィクションである)僕自身は原作を読んだことはおろか、映画すらも見たことはないが。
シェークスピアの「ロミオとジュリエット」の舞台となった北イタリアのヴェローナという街に、ジュリエット・ハウスなる建物が存在するらしい。ヴェローナはもちろん、あの物語を町興しに利用してきたわけで、毎年その悲劇に想いを重ねる数多くの人がヴェローナを訪れるのだそうだ。それどころか、世界中から「ヴェローナ市 ジュリエット様」と宛名書きされた手紙が、数えきれないほど届くのだそうだ。中身の多くは、シリアスで悲痛な独白とのこと。しかしなんと驚いたことに、その手紙にせっせと返事を書いている人たちがいるらしい。北欧のサンタクロースさんにも同じような話があるらしいが、大変な人生相談である。その人たちの活動を報じる小さな新聞記事に目をとめた、あるミュージシャンの奥さんが、その切り抜きを夫に見せたことから、今回ご紹介するこの作品が生まれたのだそうだ。
その人はエルビス=コステロ。もう十分に長いキャリアを持つロック界の大御所アーチストだ。知らんなーという方には、最近メジャーになった作品として、映画「ノッティングヒルの恋人」の主題歌「シー」(カタカナで書くとなぜか間が抜ける)を歌った人といえば、ご記憶の方も多いことだろう。男性ヴォーカルで切なバラードを歌わせると、とても印象的な声だ。あの映画は、ロマンスものが苦手な僕でもなかなか楽しめた。日常に少しだけ振りかけられる非現実性のスパイスが、とても絶妙な作品だった。「んなアホな」とは決して感じさせない素敵なラブストーリーだった。
僕はこの「ジュリエット・レターズ」を買うまで、コステロのレコードは1枚も持っていなかった。彼がロックの大物だということは知っていたが、もうそれほどロックに興味はなかった。しかし、CD屋でたまたまもらったフリーペーパーで紹介されていたこの作品の記事を読んで、その編成に少なからず興味をいただいたのだ。コステロはヴォーカルに専念し、バックには、クラシックの世界で話題になりつつあった新鋭の弦楽四重奏団、ブロドスキー・カルテットが全曲で伴奏を勤めているという。それ以外にはピアノもギターもドラムもなし。なにそれ?もういくら想像してもわからなかった。とにかく聴くしかなかったのだ。
作品の着想は先に書いた通り、人々の様々な思いが綴られた手紙を題材にした20曲で構成されている。英語の歌を聴いても歌詞がわからないという方は(もちろん僕もその一人です)、是非とも訳詞のある国内盤を手にしていただきたい。ロミオとジュリエットになぞらえた、切ない愛の歌ばかりかと思いきや、世の中には実に様々な人々の感情が渦巻いているんだなあと思い知らされる。時代が電子メールになってもショートメールになっても、これは変わらないだろう。これがこの作品の大きな魅力である。
そしてもう一つの魅力は音楽である。これはもう「さすがイギリス!」と言っておきたい。形式は完全にクラシック、それもオペラか古いミュージカルの様であるが、その魂にはロックもフォークもブルースもジャズも顔を覗かせる。こんな音楽の着想はアメリカや日本では絶対に出てこないだろう。大げさではなく、数百年の芸術の伝統があるところにしか生まれない作品だ。
最初の数曲はちょっとクラシックっぽくて重さを感じるかもしれないが、じっくりと耳を傾けてみてほしい。僕は6曲目の「アイ・オールモスト・ハド・ア・ウィークネス」で世界が開けた。財産にしがみつくおばあさんのシニカルな手紙に綴られた歌詞も最高である。それ以降はもうすべての曲が、こんな音楽があったのか、という目から(耳から)鱗の連続となった。僕はまる2週間、このCDを携帯用のプレイヤーに入れっぱなしにして、通勤の行き帰りと休日のスポーツクラブの行き帰りやファーストフードの店内で聴き続けた。季節は春だった。美しかった。
コステロはこの作品の発表後、なんとこの編成でツアーを敢行。日本でも東京で2日間だけのコンサートを行った。僕はいまでもそれを観ることができなかったことを悔やんでいる。その後発売されたプロモーションビデオ作品はいまも大切に持っている。このプロジェクトはおそらくもう二度と繰り返されることはないだろうが、僕にとっての音楽の歴史にそれは確実に刻まれることになった。1枚の新聞記事からこれだけの音楽的驚きが誕生したことは、本当に素晴らしいことだと思う。広さと深さそして楽しさと重み、すべてが凝縮されている。もやもやもやもやという春霞を、何かリセットしてみたいという方は是非!(もちろんそうでない方も)
Elvis Costello
The Brodsky Quartet
ヴェローナ市公式サイト(イタリア語)