新しいことが始まる時期だ。新しい学校、新しいクラス、新しい職場、新しい役割、新しい社会。すぐに馴染める人、そうでない人。なかなか新しい波に乗るコツがつかめないまま模索が続くこともある。僕は自分では気難しい一面と、エーイままよと飛込む面と、両方持ち合わせているように思う。以前の僕は気難しい方が強かったと思うのだが、少しは成長したのだろうか。コツはいまだに運任せである。
僕は独身の頃、横浜の磯子というところに8年間ほど住んでいた。ここは埋立地のうえにできた工業地帯と、海を臨む高台の住宅街からなる街で、近くにはアメリカ海軍の住宅などもあった。僕が住んでいたのは埋立地にある安いワンルームマンション、僕が生まれてはじめて住んだ鉄筋の建物だ。目の前にある道路の通称が「産業道路」で、その名の通りかなり殺風景で不便なところだったのだが、8年間もいたなりに気に入っていたのだと思う。
その間に僕の音楽的興味は、ジャズからハウス、テクノ、ヒップホップ、アンビエントへと拡大した。1990年代後半になるとジャズに面白いものが出てこなくなり、かと言ってクラシックにはまだうまく入れなかった。たまたま買ったカルチャー雑誌の特集で、ブームになっていたテクノのことを知り、そこに紹介されていた代表作を次々に買い集めた。また世の中はインターネット黎明期で、自分でもMacや電子音楽の機材を手に入れて曲を作ったりもしていた。磯子の殺風景な土地柄の影響もあったのかもしれない。
ある時、音楽クリエイタ向けの雑誌で、日本人ヒップホップアーチストDJ KRUSHのことを知り、はじめてヒップホップのカッコよさを知った。彼のことはいずれまたとりあげる機会があると思うのでここでは書かない。僕が惹かれたのはヒップホップが本来持っているサウンドだった。それまで、スクラッチやラップは知っていても、ただのイメージでしかなかった。この辺はいろいろと定義が難しいのだが、ラップやヒップホップは本来「貧者の音楽」で、その意味では現代のブルースでありジャズである。しかし主役となる楽器は、ギターやサックスから一変し、レコードとターンテーブルが主役になった。そして忘れてはならないのが、サンプラーの存在である。
ヒップホップのサウンドは、基本的に自分で楽器を演奏することはしない。音楽産業がばらまく大量のソース(レコード)から盗む、と書くと良くないので、イタダクのである。それもどこから拝借したかで面倒なことが起こらないように、短いフレーズに切り刻まれ、音質を悪くしたりしてサンプラーに放り込んでしまう。曲の命とも言える一番重要なリズムを決めたら(サンプルのループの時もあるし、自分でリズムマシンを叩いて打ち込場合もある)、それにあわせて日頃から集めた、ご機嫌なサンプリングフレーズを練り込んだり、まぶしたりするわけだ。これでトラック(バックの演奏)が完成する。
このうえにのせる息吹きというか生演奏に相当するのが、ターンテーブルによるスクラッチ(シュー、キュキュッ、キューとかいうやつ)、そして歌に相当するのが下町の黒人たちの言葉遊びだったラップである。ラップそのものの社会的背景を知りたい方には、エミネム主演の映画「8Miles」がおすすめだ。ここまでが本来のヒップホップの粗暴でシビレる毒々しさのエッセンスである。いくら商業的に成功したからと言って、ここに有名ギタリストのゲスト演奏やメロディの歌うボーカルやらコーラスをのせるのは、もはやヒップホップではなくただのポップスでしかないと僕は思っている。
さて、いろいろな音楽を聴く者にとって、新しく飛込んだジャンルで苦労するのが、CDの探し方である。その頃、既に多くのCDショップは、ヒップホップを独立したコーナーにしはじめていた。DJ KRUSHの音楽でヒップホップサウンドの魅力に取り憑かれた僕は、その観点でいざショップに行ってチャートインのCDを買って聴いてみたのだが、その多くはもはや違っていた。ヒップホップはすでに商業モードに入っており、多くは先に書いたような意味でのポップスになってしまっていたのだ。
しばらく迷走と失敗が続いた。クラブに行くには歳も歳だしヒップホップ系のお店はなんとなく近寄りがたい。ヒップホップ専門のレコードショップに行ってみても、なかなか居心地が悪くお店の人にもどう聞いていいものかわからなかった。職場には、ジャズやクラシックにある程度詳しい人はいたが、ハウスなんか聴いている人はいなかった。「本当にカッコいいヒップホップは、誰のCDを聴いたらいいのかなー」。意外にも僕のヒップホップ入門は挫折して、しばらくは途方に暮れる毎日だった。
しかし、キッカケは意外なところで突然、僕のすぐ脇に腰掛けてきたのだった。
ある夜、仕事仲間と会社の近くで一杯やって、くだらない話に興じて終電近い電車に乗って帰った。頭はかなりフラってた。電車が横浜駅に着いたとき、僕より若いサラリーマン風の男女が電車に乗って来た。僕の隣の席が1つ空いていたので、男は女をそこに座らせた。どうやら女の方が職場の先輩で男は新入りらしい。男は僕と同様に結構酔っていて、意識はしっかりしているが身体には結構キテいたようだ。女は酒に強いのかそれほどでもないようだった。つり革にだらんとしがみついた男と、座席で足を組んで男を見上げる女の間で、こんな会話が始まった。
・・・
「ちょっと大丈夫?藤野クン」
「あ、だいじょうっぶっすよ。酒は自信あんですけど、ちょっと足にキちゃいましたね。でもエミさん、あれっすね、酒強いっすねぇ」
「ウフフフ、会社入ったばっかりの頃は、そうでもなかったんだけどね。遊びすぎかな」
「課長とかも、エミさんは別格とか言ってましたヨ」
「まあ失礼な、っまいいけど。でも、明日はお休みだからゆっくり寝れるわね。明日は何するの?」
「そうっすねー、うーん、車とか洗わないとなー。もうだいぶん乗ってないっすよ」
「そう、車好きなんだ」
「エミさんは何すんですか、明日」
「ふっ、わたしのことは聞かないでぇー」
「あ、すんません」
「冗談よ。でもなにしようかなー。夜はまた飲みだなー」
「あ、誰だったかな、誰か言ってましたよ、エミさん音楽とか結構好きらしいっスね」
「うん、まあね」
「何聴くんスか」
「私はねぇ、あんまり売れてるやつより、クラブとかそういうので流れてるやつかなあ。ってわかる?」
「うー、あんまりわかんないっす。クラブとかよく行くんすか?」
「うん、割と行くわよ。楽しいよ」
「ふーん、俺はあんまり音楽詳しくないっスよ。例えばどんなのがいいんすかね」
「いまはねぇ、ラップとかかな」
「ラップですか。よくわかんないけど、なんかスゴイっすね」
「私、けっこう何ていうか、本格的っていうのかな、ホンモノ指向っていうのかしら。あんまり売れちゃってチャラチャラしてるのはキライなのよね」
「へぇ、そうなんですか」
「この前もね、アメリカ軍の人とかが集まるパーティーがあってね、連れてってもらったんだけど。そのときに向こうの人と話してたの。そしたら音楽の話になって、何聴くの?っていうから、私が好きなラップ、っていうかヒップホップかな、それに『ギャングスター』っていうのいるんだけど、知ってる?」
「いや、知らないっス」
「っま、本格的っていうか結構本物的で私好みなんだけどー。そしたらその黒人の人とかにギャングスターが好きだって言ったら、びっくりされちゃってさー。他の人とかに『おいおいこの女、ギャングスター聴くんだってさ』とか珍しがられちゃったのよね」
「へえ、なんかスゴイっすねー、エミさん」
・・・
横浜からいくつ駅が過ぎたのかはわからなかった。それまで、藤野君同様に酔って気持ち悪そうにほとんど動かずじっと座っていた僕が、突然動き出したかと思うとカバンからメモ帳を取り出したのには、2人も少しびっくりしたようだった。メモ帳の明日の予定欄(真っ白だった)にいきなりボールペンで「GANG STAR」と殴り書きしたのを、隣のエミさんが見ていたかどうかはわからない。翌日、いまはもう閉店した伊勢佐木町の丸井に入っていたバージンメガストアのヒップホップ売り場で、僕はギャングスターのコーナーを見つけ、このCDを買った。
ギャングスターはDJ Premierの作り出すサウンドと、The GURUの書くリリック(ラップ)からなるヒップホップユニットである。彼らのサウンドは実際にCDを聴いていただくとして、リリックからその雰囲気を伝える意味で、このアルバムで僕が一番好きな曲「THE ILLEST BROTHER 」のサビの部分を引いておこう。
GOT TO BE THE ILLEST BROTHER
TO CLAIM RESPECT
IT TAKES THE ILLEST BROTHER
JUST TO GET THE RESPECT
GOT TO BE THE ILLEST BROTHER
WHEN IT'S TIME TO GET WRECK
GOT TO BE THE ILLEST BROTHER
WHEN I GET MY MIC CHECK
THE ILLEST BROTHERにぴったりくる日本語を考えてみたが・・・うー、難しいっスね。これは感じるしかないようだ。僕がはじめて聴いたDJ KRUSHのアルバムに、実はギャングスターの2人がゲスト参加していたことを知ったのは、もうしばらく後、僕がヒッピホップのことをある程度知ってからのことである。まあ現実はそんなものなのだ。目の前にきっかけはあるのだが、簡単には見せてもらえないのだ。それを人生の楽しみと思えればベストなのだが、難しいものだ。
ともかく、こうして僕は自分にとってのヒップホップを楽しむコツを手に入れることができた。エミさんがどんな顔をした女性だったのか見ていなかったのでわからないが、僕の左肩から伝わってきた彼女の声と雰囲気はいまでも覚えている。
GANG STARR
DJ KRUSH Official Web Site
横浜市磯子区ホームページ